はないちもんめ

 スマホゲームのガチャが好きで、では何が好きかというと「ガチャを引く」という行為に含まれる蓋然性のようなものとそれに身をゆだねること、その結果が簡単にわかるということ(今回はSSR引けなかった)が楽しいわけで、そこから拡張し、そもそもキャラを所持することも好きだよな? となり、じゃあ「キャラを所持するって何だ?」という話になった。「カード」を所有するということだ。自分のものにするということ。それはコレクター欲と言ってもいいのかもしれない。ではコレクトする欲求とはいかに。多分人それぞれだと思うけれど、私の場合は「良いものを集めたい」という気持ちがある。「良いもの」とは”I want to be”である。私のなりたいもの、憧れるもの = 良いもの、だとすれば「集める」というのは私にとって、可能性の収集と言えるかもしれない(だといいなと思っている)。

 コレクトすることに関してうだうだ考えているのは、どことなく後ろめたいからだ。コレクトには「支配」の香りがうっすら漂っている気がしていて、ああ、そうかい、私たちは他人を自分の手中に収めたい生き物よなあ…と、暗澹というほどではないが落ち込む。私自身、昔はキャラをコレクトするのはそれほど好きではなかったはずなのに、うーむ、今回のイベントの和泉一織*1は欲しい、とか思っている自分がいて、戸惑う。カード一覧に並んだ数々のキャラクターを見て「今度こそスマホアプリ消したろか」と思わなくもない。

 重松清の『きみの友だち』には、子どもの遊びである「はないちもんめ」が登場する。誰かが誰かを選ぶことは本来とても恐ろしいことであるはずなのに、子どもたちは無邪気に軽やかに乗り越えていく。私は「はないちもんめ」を否定はしないし、むしろめちゃめちゃ興味深い遊びだと思うけど、それはさておき、誰かを選ぶことは、誰かを選ばないことでもあるのだと思っていて、故に、本来の私は「誰かを選ぶことで誰かを選ばない」という事態を避けたいのだった。日和見か? 誰かを選ぶことで生じる責任から逃れたいだけではないか? と思う自分がいて、それがコレクトにも関係する。誰かをコレクトするということは、誰かをコレクトしないということになるからだ。推すということは、推さないということでもあった。都合のいい博愛主義者め、堂々と選んでみやがれ、と思うわけであった。

 何を書きたいかわからなくなった。「好き」と言うことは、「好きではない」と宣言することとイコールか? そうかも。できれば「好きではない」と言いたくはないのだが。選びたくない。「選ばない」をしたくない。素直に選べないまま、推せないまま、言えないまま、中途半端なコレクト、灰色の中を生きている。

*1:スマホアプリゲーム「アイドリッシュセブン」内に登場するキャラクター。ややこしいがイベント内で彼が演じている「カバネ」というキャラの声が好きだなと思っていて、今回ばかりはカバネを演じた和泉一織のカードが欲しいな…と思うのだが、無課金では限界がある為どうも手に入れられそうにない。ガチャ楽しい。いやはや。