七月、晦日

 頭が少しだけツンとして痛い。半分熱中症なのかもしれないし風邪を引いたのかもしれないし、あるいは。頭痛がすると言っても差し支えない程度のもので、私は今こうして文章を書き始めている。

いかの塩辛

 いかの塩辛をもらった。冷蔵庫で冷やされた瓶はひんやりと冷たく、きゅぽっと蓋をひねって開けると、どろどろの茶色とピンクを混ぜたような液体が見える。そこに箸をつっこんで、漬かっているいかを取り出す。椀によそって温めた白米の上に、それをのせる。ご飯の温かさと、いかの塩辛の冷たさが溶ける瞬間を箸ですくって口に運ぶ。
 美味しい。
 塩辛独特の発酵したお酒っぽい味わい。ぷりぷりと弾力のある、いかの身。歯で潰そうとすると少し押し返してくる、ぷちぷちとした感覚と、ほかほかのご飯の甘さ。
 私は一人、美味しいなあ美味しいなあと呟きながら、黙々と食べる。いかの塩辛とご飯を食べて生きていけたらいいのに。ん? 私は生きるために何かを食べているのではなかったか。何か倒錯している。そんな疑問もいかの塩辛の前には溶けて消えてなくなってしまう。空の茶碗と、美味しかったなあという余韻。

走る

 6月になってから真面目に走るようになった。この場合の「真面目」というのは、私の中での真面目であり、一般的な真面目とは乖離があると思う。そもそもジョギングを、ランニングを習慣としている人が、真面目じゃないなんて、そんなことあるもんか。孤独で、単調なスポーツ。私はその真面目の末席にいる、そういう感じだ。週2回くらい走る。それが私の真面目。
 問題は6月という季節なのだ。ランニングのシーズンとして、春か秋か冬か、それはおそらく住む地域によっても多少意見が分かれると思うが(私は冬だと思っている)間違いなく「夏」は候補に入らないだろう。ただでさえ暑い夏に走るなんて馬鹿げている、と思っている。が、私は6月から再び真面目に走るようになる。
 理由は簡単で、動かない分、体に肉がついてきたからなのだけど、それにしても、夏に走っているということが面白くて仕方がない。当然少し走れば汗が滝のように流れ落ちるし、冬以上に水分補給には気を遣わないといけないのだけれど、それ以外は他の季節と変わらないかもしれない。走ればどうせ熱くなるのだ。夏でも、冬でも。そのことに気づいてから、そうだな、暑い日に辛いカレーが食べたくなるように(少しその感覚わかる)暑い日でも私は走る。走ると獣になる。悪くない。

 痺れ

 お気に入りの『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』のp.163には、オレンジ色の付箋が貼られている。過去の私がおそらく貼ったもので、今の私も同じ気持ちで貼り続けている。(付箋は大概後で読み返すときに剥がしてしまうものだけれど。ノートに書き写したりして用済みなので。)

 私は若い時に"孤独"を探し求めた。あなたは、あそこにいた私を見ていた。何も気づかぬままに辛抱強くあの山の天辺にいた私を。
 でも、今、あなたのことを考える時、私は"二人でともに孤独でありたい"という思いでいっぱいになっている。全力をあげて戦い、全力をあげてともに働きたい。私はお互いにコンタクトする中で生きたい。私は、あなたのためのコンテクストになりたい。そして、あなたにも、私のためのコンテクストになってほしい。
 あなたを愛している、あなたを愛している、そして、これが何を意味しているかを、二人で見つけ出したい。

  「二人でともに孤独でありたい」というフレーズが印象的で、私はこの物語を今も咀嚼しきれていないけれど、そうか、「二人でともに孤独であること」を目指すことは可能なんだ。それを言ってしまっていいんだということに痺れた。
 孤独とは何だろう。私は考えている。一般的には「独りぼっちであること」。そこに「周囲に頼れる人がいない」「心の通い合う相手がいない」という修飾がつく感じだ。レッドからブルーに宛てたこの手紙、"二人でともに孤独でありたい"という「孤独」に、「心が通い合う人がいないこと」が含まれているのかどうか。わからないな。
 孤独について考えていたときに、理解を求めると辛いのだろうな、ということは思った。昔の私は今以上に、十全に理解されることを願ったけれど、逆に理解されないことによる自由というのもあったのだった。
 コンテクストのくだりもとても強烈なメッセージで、読むたびにぼーっとしてしまう。己を差し出し、かつ、相手にも同様のことを求める、そのエネルギーよ。

牛乳石鹸

 牛乳石鹸が好きだ。正確には牛乳石鹸の箱が好きだ。私は箱が好きなのです。
 ディスカウントストアの片隅で、牛の絵が描かれた赤い箱が乱雑にかごの中に入っているのを見かけると、私はするすると近寄って10秒くらい立ち止まった末に、自分の買い物かごに1箱入れました。箱が好きだからです。
 どれくらいだろう。2か月くらい、放置していたけれども、急に「石鹸で手を洗うのもいいな」と思い立ち、私はかさかさと箱を開け、中身を取り出し手を洗ってみました。滑らかな曲線、牛乳石鹸という名にふさわしい、ミルク感がある石鹸です。良い匂いがした。ついでに顔も洗ってみました。良い感じ。

チョコボール

 後輩くんの作業スペースにはチョコボールエナジードリンクが高確率で置いてあって、私は特にチョコボールが気になる。コンビニで買うと70円くらい?君はチョコボールが好きなのかい?と聞きたい気もするが、いつも聞けない。同期の机には胃薬の瓶が置いてあって、それも不思議。胃薬って飲んだことがないから。嘘。正露丸は1回だけ飲んだことがある。私の場所には必要なもの以外、個性を彩るアイテムは何もない。私の場所は、私がいることで初めて成立する感じがする。身一つ。そこについてくる筆記具やらノートやらが私の場所を作る。

お腹いっぱいでもういいです、十分です

 夏の日暮れ、部屋のカーテンが風で揺れる。風が肌に触れるとそこに冷たさがある。7月31日にして、既に夏が終わりそうな、そういう心情になっているが、ちょっと早すぎないかい私。夏が終われば、秋がやってくる。いいなあ。死にたい。死にたいという言葉は間違いなく誤解を生みそうだけど、お腹いっぱいでもういいです、十分です、という感じ。ナイフとフォークを空いた皿に置けば、満腹であることを表明し食事は終わるけれども、人生の区切りはつけられない。「お腹いっぱいでもういいです」という気持ちで以て、人生を能動的に?区切ることはできない。多分。しかし世の中で親しんでいるものはどうだろう?区切られている。箱に入ったチーズ。編集された動画。タンブラーに入ったジュース。予選、準々決勝、準決勝、決勝。スマホのバッテリー。読みかけの本。それらはいつかは終わる。終わるもの?終わらせられるもの?混乱してきた。つまり、人生を能動的に区切ることは難しいということ。「お腹いっぱいでもういいです、十分です」と思っても、人生は終わってくれないということ。終わってほしくないタイミングで、終わるということ。よくわからないことを考えてしまった。

知識

 クイズ番組を見る。自分が知っていることを一つずつ確認する作業そのものは否定しないけれど、それを競うことに意味はあるのだろうかということを考える。多分無いね。ただ、面白いんだ。
 私は自分の知っていることを話したくないタイプの人間で、嬉々として雑学を言ってくる人や、さも自分が「わかっている側の人間である」と表明する人を敬遠してしまう。と言う私の告白は、「そういうことを考えている私は「知っている」人間なのよ」と言っていることとイコールなのだろうか。だとしたらそれは嫌だなあ。本当に嫌だ。
 「知っている」ということを、私は自己満足の領域に留めたい。「知っている」ということを他人へ干渉する素材にしたくない。私は私の為に知りたい。あるいは武器として知りたい。他人への影響力を持つ為ではなく、私がサバイブする手段として、知りたい。
 人と会話していると「私知ってる」の展覧会みたいになることがあって、あとで一人になるときに必ず自己嫌悪に陥る。一人になりたいと願ってしまう。私はその展覧会に参加したくない。知識は所有するものではなく、新たな何かを創造し、また私を生かすものだ。