シナモン味の信頼

 「僕は治野さんを信頼しているので」とその人は事あるごとに私に言う。

 信頼ですか、と聞き返したりはしない。

 私は信頼という言葉を信頼していないし、人間を信頼していないわけですが、あなたは私を信頼すると言うのですか。言われる度にぐるぐると考えてしまう。この言語感覚の相違は面白い。そうこなくっちゃ、と思う。でなければ世界なんてつまらなすぎる。

 信じて頼ること。それが信頼。私に欠けているのはどちら。多分両方だろう。他者を信頼するより自分で片付けたほうが、確実で、楽で、面白いという理由。それで私は人を信頼しないのだろうか。「僕」は信じることもできるし頼ることもできる。そして何より「「信頼」という言葉を「信頼している」」ことを表明できるということが、素晴らしい。何度も言うけれど私には無い感覚だから気になる。私は私が持っていないものが気になる。何故なら私が持っていないものだから。

 「僕」の信頼に若干の甘えを感じる。媚びを感じる。疎ましいとは感じない程度の微量の甘えを。許されようとする弱さを。別にそれは良い。感覚としては、ジンジャーブレッドラテに無くてはならないシナモンパウダーと同じアクセント。ピリリと舌の上で辛みが走る感じ。甘えだけど、辛み成分。微量である分にはスパイスとして機能するけれど、大量に使用すると意味をなさないシナモンのよう。

 ここまでうだうだ考えて、やっぱり信頼しているって自分は言われたくないのかなと思い始めてきた。信頼しているって言わないでください。それはつまり何もわかってないってことなの。私が信頼できない人間なのは、自分が知っている。だから、言わないで。信頼しているって。