私はけっこう先延ばし癖がひどいと思う。そのおかげで大なり小なり酷い目に遭ったことがあるし、これを治せればさらに人生がハッピーになるだろうなあ、と思っている。で、どうして私は、物事を先延ばしにするのだろう、と考えてみる。
多分「先延ばし」とやらは、人間にありがちな行動で、「怠惰」とは切り離して考えるべきだと思う。私の先延ばしは、怠惰が起因ではないように思う。では何か。恐怖だ。
興味深いことに、私はメールが怖い。チャットが怖い。はがきが怖い。人に声をかけられることが怖いし、なんならブログに寄せられるコメントだって、怖い。が、それらが嫌いなわけではない。ブログのコメントなんて、結構嬉しいことの一つである。私は何を恐れているのか。
始まることを恐れている。対面しなければいけないことを恐れている。そのことについて考えなければならないことを恐れている。そういうことみたいだ。物事そのものを恐れているわけではない。事実、手をつければ驚くほど(多分先延ばしに苦しまれている人多くが感じると思う)事はうまく進められるのだ。それだけの、一定の、能力はたぶんある。できないから恐れているのではない。
この恐れはどうしたものか、と思う。
一つ。過去に学ぶ。あなた、同じように怖い怖いと思っていたことでも蓋を開けてみれば大したことなかったじゃない。自分に言い聞かせる。それはもうやっている。結構面倒。子どもに説き伏せているみたいで我ながら少々イラっとするのもある。
一つ。取り組みを遊具化する。つまり、恐怖を覚える物事を、一つの遊びと考える。ボルタリングの突起みたいに、考える。体を引っ張り上げることにfunを見出す。まあ、結構いけるアイデアだと思う。
一つ。評価について、一旦考えるのをやめる。私の恐怖の根底にあるのは、自分が何か事を起こしたことに伴う波紋を食らいたくないからである。行動の代償を払うのが嫌というか。いや、違うな。払う心づもりはある。でも何を払えばいいのか、それを考えることが怖い。私は何を差し出せばいいのか、一々考えなければならないのが怖い。考える必要があるのか? いや、ないのか?
人に眉を顰められるのが怖いというよりは、どういう反応をされるのか予め想定できないから怖いという感じだ。別に怒られても良くて(怒られることはないのだが)問題は、相手がどのようなボールを投げ返してくるか、予想できないことであった。私はある程度のボールであれば受け止められるはずなのに、死球が飛んでくるかもしれないなあ、どうしたものかなあ、と考える。
稀に「もうどんな球が飛んできてもいいや、大丈夫」と思える物事や人がいる。その場合、私の先延ばしはぐっと減る。そういうことだ。
私が先伸ばしについて考えることはこれぐらいで、この文章も、別のことを先延ばしにして書いている。そろそろやらなければならないことに戻ろう。私にとって、書くという行為は、今のところ先伸ばすことには当たらない。