相変わらず崎山蒼志の燈のことを考えている。
歌詞を書き写したノート、一代目ではやらなかったこととして、黒ペンで書き写した後に、色ペンで自分が思ったこととか気になることとか、そういうのを書き込んでいく。高校生の頃の英語のノートみたいに。
「新品の朝」というのは、割り切った、吹っ切れた、あるいは一つの方向に舵を切ったということなんだな、と考え直す。「死人みたいな一日」はゾンビであり昨日から連続した一日だから、ちょっと違う。「新品の朝」ということは、昨日と今日は断絶しているのだ。
とりあえず、プラチナ万年筆のセンチュリーで歌詞は書き写した。そういえば、他の万年筆は捨ててしまったんだ。嫌になってしまった。もう万年筆を何本も持つことはない気がする。嫌いになったのではなく、嫌になってしまったんだ。
私が頑張るのは頑張りたいから頑張るわけじゃなくて、人と関わりたくないから頑張る説はある。誰にも文句は言わせないように。でも、私はスーパーレディではないので全部がパーフェクトなんざ無理なわけで、だからとにかく頑張るでできる範囲には限界がある。苦手なことがたくさんある。得意なことは少しある。
人と関わりたくないというのは、昔自分の中で例えたのは、湖に石を投げたらそこから波紋が広がるけれど、私にとって誰かと話すことは石を投げることと同じで、その波紋がどういう風に広がりこちらに到達するのかわからなくて怖い、というのがある。予想できないのが怖い。予想できないのは当たり前なのに。予想できないのが怖い理由は、そのまま楽なスタイルで居たら駄目、人によってちゃんと適切に応答しないと駄目なんだ、と思っているからかと。ポケモンのメタモンみたいに、へんしんをしないといけないと思っている。でも、言うてちゃんと上手く「へんしん」できているわけじゃないのがポイント。上手くいってないよ。というか、「自分が楽な状態」というものがそもそもあんまりわかっていない説もある。電車に揺られて遠く出かけるときの私は、自分としても結構好きなのだけど、そういう状態でいいのだろうか。そしたら何も喋りたくないけど。喋らないけど。
パフェが食べたいなあと思って、ファミレスにのこのこ出かけていって、ひとり、テーブル席につき、パフェを頼んだ。「こういうお金の使い方をあまりしない」。こういうお金の使い方って、何だろう。もっと慎重に、時間という篩にかけて、それでも食べたいのなら、次に食べたいと思うタイミングで食べる。食べたいと思うこと(二回目)はその場の思いつきになるので、衝動的な人間だと思われるかもしれない。難しいな。慎重とその場的が共存している。
パフェ。もっとコーンフレークがざくざくだと嬉しい。私はコーンフレークをざくざくさせたい。トップ部分が華やかじゃなくても全然いいの。コーンフレークがざくざくならば。パフェの器を自分で持っておいて、コーンフレークとホイップクリームと、好きな冷凍フルーツを買って盛り付けて、私好みのパフェを作ることがいいかもしれない。今、調べてみた。パフェの器は「パフェグラス」というらしい。ちゃんとそういう器があってそういう名称なのだった。じゃあ手製のパフェを作っている人もいるのかしら。いるか。私も手作りパフェを作る人になるか。
今作りたいもの。スツール。パフェ。巾着袋。