集積した末路

 私は自分が優しい人間だとは思っていない。一般的な意味での思い遣りがあるとも思っていない。でも、多分私は、思い遣りがある人間だと思われている(その評価が間違いなら以下の文章は私の杞憂である)。その乖離は何なのか。

 観点というのを後天的に学習してきたのだと思う。○○なとき、人間はどんなことを考えるでしょう。人間の行動と感情と所作に関する細かく切り分けられた観点。パターンと言ってもいいだろう。幼い頃の私は「とにかくそういうパターンをどんどん収集しよう」と思ったわけだ。私は他人のことがどうでもいいと思っていたし、優しくはないからふとしたタイミングで人を傷つけかねない。そういう事態を避ける為にパターンを集積しようと思った。表面的に優しければ過度に人に嫌われることもないので(それに大人からの心証も良い)メリットはあるだろうと思った。結局、思い遣りというのはパターンの肌理の細かさなのだろうと思った。人を傷つけるのは合理的じゃない。その判断は優しさって言うのかな、私は言わないと思うのだけど。

 思い遣りはないのだけど、色々学習した結果、人の感情の機微がまあまあわかるようになった(これで全然わかってなかったら笑い種なんだけど。それはそれでいいのよね)。他人の機嫌は声色で大体わかるし(表情と所作があればなおさら)感情の大きな波をかぶればもろに落ち込む。例えば、Jのつく芸能事務所から誰かが退所したとする。その芸能人に対して何も思い入れがなくても、その日一日中落ち込むなんて馬鹿な話が本当にあるのだ。ああ、たくさんの人が動転していたり悲しんでいたり誰かを説いていたりしているのかなと、その感情エネルギーの大きさに私は茫然とするのだった。パターンを収集するということは、想像のレパートリーが広がるということだった。

 たとえば、悲しみという感情を考えたときに、私が悲しいことよりも、誰かが悲しんでいるから悲しいということが何倍もあるわけで、そのあまりに歪な比率を前に、私は私自身の感情(特に負の感情)を見失う。私自身が悲しいことなんてそんなに多くないのだ。私自身が怒ることもまた然り。大概は誰かが悲しんでいたり憤っていたりするのをただ悲しんで眺めているだけで。だから時々思う。みんなもっとちゃんとしてほしい、と。みんながちゃんとしてくれないから、私はずっとドキドキしてしまう、と。苦しいし、落ち着かないし。もちろんこれは私が勝手にほいほい引き寄せている類のもので、他者を責める道理なんてないのだけれど、そういう気持ちもあって私はますます他人が嫌いになる。もっとちゃんとしてほしい。私の心を乱さないでほしい、と恨み節を言う。そういうこともあって、私は時々一人で人気のないところに出かけないと駄目になるのだった。

 何故このようなことを書いているのかというと、それ自体は別に私は悲しくないのだけど、私以外の人は悲しむからなんか悲しいかもーと思うことがあり、その扱いに困ったからだ。ああ、AさんはBさんのことが嫌いなんだろうな、私もまあ嫌いっちゃ嫌いだけど、でもそんなの大したことないし、でもAさんがBさんのこと嫌っているの嫌だな、ということもあった。基本的に私は他人が嫌い合う話が好きではない。

 あらゆる人間関係に痛みを感じるならば、それらあらゆる縁をぶった切って一人になるのが一番の安寧じゃないかと思ってここまでやってきて、ただ、今のところそこまで思い切った行動はできないでいる。