春のゼロの

かねてから行ってみたいと思っていた場所へ行く。

調べものは最低限。スタートとゴールを決めて、電車の時刻を調べて、あとは大雑把な位置関係だけGoogleマップで頭に入れて行くのが私のやり方である。おかげで効率が悪い行程だと思うし見逃しているものも多いが、決めすぎると驚きを欠くことになるから仕方ない。

まずは海の方へ。2月の後半だというのに、既に直射日光がきつい、夏が今から怖い、などと思っていたらもう3月初めだったのを忘れていた。

途中でパン屋さんがあったのでくるみのミルクパンを買う。じゃきじゃきしている食感が好きなので、くるみを使ったパンがあるとよく手にとる。ミルククリームがしっかりとした甘さで、そこにくるみの香ばしさが混ざっておいしかった。体に染みる甘さだ。

もぐもぐパンを食べながら歩いていたら、地元のおじいさんとすれ違う。すれ違いざま「おはようございます」と挨拶されたので、少し頭を下げて私も「おはようございます」と返した。挨拶を返す私の声色は、微社交性モードといったところで、我ながら違和感を抱く。今ならその理由がわかる。出かけている時は基本的に非社交性モードの私なので、誰かと愛想よく会話するというのはイレギュラーなのだ。こんな私珍しい、と思ってしまうのだろう。キャラがぶれるのを感じる。

民宿をちらほら見かける。次の泊りがけの旅行は民宿でもいいかもしれないなと思う。白い自転車が塀に寄りかかっている。よく見てみるとチェーンはタイヤにかけられていない。私は周囲に誰もいないことを確認してタイヤに触れた。弾力。空気は抜けていない。じゃあ、今この瞬間、私はこの自転車に乗ることができるってわけだ。それはとても魅力的な思いつきだったけれど、思い留める。もしかしたら持ち主は、この辺りの人気のなさを信用して、「ちょっとそこまで」野暮用に出かけたのかもしれない、鍵をかけずに。人の、そういう世界に対する信頼を積極的に壊すのかというと、私はしない。歩く。

海へと続く道、その向こう遠くに、ちりちりときらめく水平線が見える。「今日ここに来れてよかった」と率直に思う。

注意深く砂浜を踏みしめる。砂浜というやつはいつだって油断ならない。慎重に、足を砂の上に下ろす。レジャーシートを持っている私は、一人用のシートをいそいそと砂の上に敷いて、そこにリュックをどさっと下ろし、横になる。海の方から絶えず吹きつける風が、足の先から頭のてっぺんまでなぞっていくのを感じる。まだ冷たい風だ。

 

明太子はなかなか辛かった。

 

海沿いをひたすらに歩き、水族館にも行ってみた。途中で通り過ぎた公園の駐車場にはたくさんの車が停まっていて、それを見て「車が欲しいな」と思った。

 

 

 

「その理由はよくわかっていません」

とてもいい日本語だと思う。世界はそんなもので時々その事実を忘れる人間が悪い。

 

今回のお出かけでよかったもの。海、ハリセンボンとマンボウ、たくさん歩いたのに帰りにプールに寄って泳いだこと。足の疲労が幾分軽減されて、軽くなったのに驚いた。私はもうからっぽである。また今日から何かが溜まっていく体。