メモランダム vol.13

そわそわ

イライラしている、いや、そわそわしている。私は電車に乗っていて先ほどまで本を読んでいた。ほんの数ページ読んで、ああこれ以上は無理、ちょっと休憩しないと、と思って本を静かに閉じてかばんにしまった。ステーキでもハンバーグでも数切れ食べて満たされてしまったように。水が引いてくれるのを待つわずかな時間、余韻。早く読みたい、だけど体が受け付けない。そのそわそわ。

 

野焼き

このブログの記事として書いていた文章がごっそり消えてしまった。基本的に消えたものについて頓着はなくて、もっと他のことができるという前向きな気持ちでやっていくのですぐにこのテキストを書いている。

 

目的との一致

「書いていても何にもならない」という私自身の悲しみに対するコメント。何かになる為に書いているわけではないので目的との不一致は起きていないと思う。

 

他人が枷のように思えることが悲しい。辛辣な言い方だろうけれど、一人のときの自分が一番気楽で自然体であるという状態をどうにかしてほしい。どうして誰かと一緒にいるときに、楽しさより気疲れの方が上回るのだろうか。本当に一人になれば、私は誰かと一緒にいたいと思えるのだろうか。検証してみたい気持ちが湧いてきている。私には誰かと会話したいという欲があまりないのかもしれない。甘やかに舐め合うような会話なんて所詮夢まぼろしで、綿飴を食っているようなものだろうと思ってしまう。じゃあ、理解し合えないことを確かめ合う為に会話する? でもその具体的事例はSNSの至る所で観測できてそれを改めて実践する必要があるのか、ないのか。いや、必要ではなく、私がしたいのかどうか。おそらくこれからの私の10年はここが課題となる。他者と会話して楽しいという感覚は、かなり動物的なことだと思う。私は考えすぎ。

 

小さなノート

調子がいい。12月後半から小さなノートにできたことを書いているからだと思う。腕立てしたとか、ちょっとだけ勉強したとか、ペペロンチーノ作って食べたとか。しょうもない些細なことを愚かに書いている。できたことを可視化することで自信に繋がるし、リマインドにもなる(ああ。そういえば私は腕立て伏せ2週間チャレンジを実施中だった)。私が弱るのは一日を無駄に過ごすしたと思うとき。忙しくて一日を振り返れない日々が続くとき。単純に肉体的精神的に疲れているとき。

 

あなたのためにあるわけではない

先日きょうだいの子どもが生まれたのだけど、ビデオ通話上でまともに見ることができなくてそういう自分に動揺している。何故見られなかったのだろう。

生命の誕生はめでたいことであるが、そこに様々な人間の思惑みたいなものが絡んでいる気がして重たく感じるのかもしれない。赤子の顔を見たら私はきっと色々なことを考える、それが嫌だった。考えること以上に、考えたものを赤子に投影しそうで嫌だった。生まれた、素晴らしいことだ、それでいいじゃないか。

母の同僚は「いいなあ(うちの子はそういうのはないから)」と溜息を漏らしたという。でもさ、別に人が生まれるのは誰の為でもないよね、と思ってしまう。別にあなたのために生まれたわけじゃない。でも「いいなあ」と思ってしまう人の心もわかる。わかるからそういうこと言わないでほしいって思っちゃう。とりあえずきょうだいには「おつかれー」と言った。

 

レアをレアのまま

ポケモンには色違いというものがあるのだけど、新作のポケモンで嬉々として色違い集めるの意味わからん、と大声で叫びたい衝動に襲われている(のでここで書いている)。レアをレアなまま味わうことをしないのは私からすれば粋じゃない行為なのだが。色違いが捕まえやすくなったところで、その価値が減衰するだけでは?だから色違いを集めたい人は「色が違う種」を手に入れたいのだなと思うことで無理やり感情を抑え込もうと思う。そもそも遊び方は人の勝手なので私があれこれ言う問題でもない。

 

頭痛

仕事が終わった。普段なら訳ないのに、今日に限って私の頭は痛む。疲れているとき(例えば一日中電車に乗って20kmぐらい歩いたときなんかは)頭が痛むものだが、今日はただ求められた仕事をしただけである。頭を

ここまで書いて、私はスマホを遠ざける。頭が痛くてとても文章を書いていられない。電車の中は暑い。澄んだ空気、冷たい空気が欲しい。あともう少し電車に乗っていなければならない。私は電車に乗るということが好きだが、今日に限っては耐えられそうにない。