起こらなかったこと

 どうしても朝やらなければならないことがあって、ついでだからと、8時に家を出て少し歩く。昨日作ってボトルに残っているスポドリを小さな肩掛けカバンに入れる。撮らないと思うけどコンデジも入れておく。冬の朝。寒いので無意識に日向を歩く。歩きながら「なんだかなあ」と思う。酔狂である、我ながら。自分の服を点検する。ヘッドフォン、黒の上着、黒の肩掛けカバン、黒のズボン、スニーカー。私はどう見えているのだろうと考える。

 先輩のIが運転する車の助手席には先輩のFちゃん、そして後部座席には私。Fちゃんが唐突に言ったことを思い出す。知らない町を訪れたときに、もしこの町に住んでいたら、ということを考えるんだよねー。スーパーはどこにあって何を買うとか、そういうの考えちゃう。Fちゃんのとりとめのなさと自我の強さみたいなものが私は苦手だったんだけど、嫌いではなかった。

 もしこの町に住んでいたら。私はそういう仮説を立てない。立てたところでその町に住むわけではないからだ。そんなこと考えるくらいなら引越して実際に住んでしまえばいいと思ってしまう。だけれど「どうして私はこの町に住まない人生を送っているのだろう」とは考える(どうして、という問いの立て方は正しくないような気がするけど)。どうしても何も、そこには明確な理由なんてない。すべては偶然性の上に成り立っていることで、だからさらに私はこう考えるのだった。「自分の人生はどうあってもよかったはずだが、今、現状こういう人生を歩んでいる」。

 

 文藝2022年秋の千葉雅也の私小説論がめちゃめちゃ面白くて、その中に「偶発性のようなものに耐えること」という話が出てきたと思う。「私の人生、別の物でもありえたが、いいや、結局こうなってしまっている」ということと、近しい、のか。

 私は、このまま川に飛び込むこともできたし、誰かの腹に包丁を刺すこともできたし、ケーキの食べ放題にでかけることもできたし、ハワイに行くこともできた。でも、それを選ばない。何故? 理由は特にない。戯れ。それがとても大切なのだと私は思う。明確な意思を持って人生の分岐路を都度都度選んでいるわけじゃない。そういう曖昧さの上に自分の人生は成り立っているのだと思うと偶然性をしっかりと堪能したいし、逆に言うと極端な選択には慎重になる。慎重でいられるということは余裕があるということで、余裕があるということは元気で体力があるからということで、だから私はなるべく元気でいたいと思っている。極端なことに飛びつかないように。曖昧でグレーな状態に耐え続けられるように。

 

 そんなことを、歩きながらぼんやりと考えていたように思う。

 

 冬の芝生はそれまでの季節と打って変わって、一面が白っぽくなる。その白さは祖父の短く刈り上げた白髪を想起させる。長いこと祖父には会っていない。そして、会いたいとも思っていない。私の祖父は果たして自分の人生を歩んでいるのか、私にはわかりかねて、「自分の人生とは」みたいなことをまともに真正面から考えたことがなさそうな祖父が、私は本当に嫌いだと思う。