殺蛹

 さつよう、と読む。先日、そろそろ電車に乗らないとまずそうということで、一日中電車に乗っていた。定期的に出かけないと調子が悪くなる(と思っている)体である。そして、ひょんなことから富岡製糸場に行くことになった。行くつもりはこれっぽっちもなかったけれど、行程や時間など様々なファクターが重なりとにかく行った。

 糸を作るというのは、蚕を育て、繭から糸を紡ぐことである。それまでの私は、製糸の工程を理解はしていたと思う。人に尋ねられたら答えられたとも思う。けれど実際それが何なのかはよくわかっていなかったと言わざるを得ない。

 展示では製糸の流れが丁寧に説明されていて、私は興味深くそれを読む。蚕は糸を吐き、その中で蛾になる準備をする。彼ら彼女らが外の世界に飛び出すとき、それはすなわち繭が破られるとき(正確には唾液で繭を溶かすらしいけれど)。繭から糸を紡ぐにはちょっとばかり困ったことになる。何故なら生糸としての商品価値がなくなってしまうから。そこで、蛾になる前に蚕を殺す、それが殺蛹である。

 物語のような完璧な流れだった。それはまあ、そうだよなあ、と思いつつ、実際のところ私はショックを受けていた。豚や牛と同じようなものだと考えればいい。ただ私がショックを受けたのは、蚕は繭の中で死んでいくということそのものであった。電気ショックとはまた違う不気味さで、そして、正直なことを言えば繭の中で死んでいく蚕をイメージするとほんの少しだけドキドキした。官能的な気配を漂わせる僅かな興奮。

 富岡製糸場の存在意義はまた別のところにあるけども、私の心に最も印象に残ったのは「殺繭」というワードで、帰りの電車の中でノートを広げるといの一番に「殺繭」と書いた。繭という漢字が書けなくて、糸と虫を逆に書いてたけど(ちなみに「殺繭」でインターネットを調べても熟語としてヒットしない。専門的な言葉なのかも)。

 おそらくこの言葉から新たな物語が生まれる。でも、今のところ私は物語を紡げそうにない。いつか、ひょんなことから書くことになるかもしれないし、書かずじまいになるかもしれない。