懺悔

 懺悔。過去の罰過を(神仏の前で)悔い改めること。

 

 私が寺社仏閣に足を運ぶのは宗教に興味があるからではなく、その空間が好きだからに過ぎない。そして私は電車に乗って移動するのが好きだ。

この日、やたらセブンティーンアイスを見かけた

 コロナ療養明け、酷暑も相まって外に出かけていない日々。感染者も増えている。さてどうしたものか。一人だし、飲みに行くわけでもないし、体調は悪くないし、そろそろ電車に乗りたい。メンタルヘルスケアの為にも…と、最後の最後まで、いいや、電車に乗り始めてもなお言い訳を拵えもう一人の自分に弁明している私。ううむ、潔く「行くんだ!」と言え。

 

いつの間にか高い場所

 

 

用をなしていない看板

 

体感湿度98% vs 私のくせっ毛(当然何も準備していない私の負け)

 暑いのか暑くないのかよくわからない気温でイライラする。暑いなら暑いで構わないし、涼しいなら涼しいままでいてほしいのに。実際そうだから思うけど、バリアフリーとか何も考えていない山の石段について色々考える(そもそもそういう人たちは存在していないとされているのかも。昔は)。世界は厳しい。しかし一方で優しくなれるはず。

事前準備ゼロなので自分が何を見ているのかわかっていない

 

 ふと「懺悔」という曲を思い出したので、敷地内はずっとリピート再生していた。EXILE ATSUSHIと作曲を久石譲が手掛けた楽曲で、かつてこの曲を聴いて宮島を歩き回ったこともあった。厳島神社がそうさせたというか、要はこういう寺社をめぐるときのお供にぴったりということ。

 懺悔。この漢字を私は書けないだろう。書けないのは日記でも書いたことがないからで(鬱はそういう理屈で書ける)そのうち書けるようになろうと頭の片隅にメモしておく。

 お金を払わないと寺社に入れない。色々な寺社が集まっている場所だからそのお寺その神社で料金を支払う。聞いてないよー(正しくは私の事前調査不足)と恨み言を内心言いながら、とりあえず一つだけ今回は足を運ぶことにする。どのみちそれが非常にボリューミーだったので他のお寺や神社は見られなかったと思う。この場所は数回に分けて訪れた方がよさそうだ。

 宝物殿を真面目に見学する。人がいない。何が何だかわからないから「昔の人はすごいなー」とそれだけを繰り返す。実際すごいわけで、木を彫って仏像を作ったり、金銅で仏具を作ったり、よくわからないというか、同じ人間なんだからその心を想像できるだろうに「合ってるのかなこれで」と不安になる。当時は世界で発生する事象はわからないことだらけだっただろう。今、私は「わかる」と思っていることも、一旦そうだろうとされているものばかりで、そういう意味では私は科学を信仰していると言ってもいいのか。同じように、昔の人はわからないことをどうにか咀嚼しようとしていたのか。それが信仰か。あとはやっぱり人が死ぬということなのだろう。死が怖いから、死んだ後の世界が怖いから一生懸命祈ったのか。その点はちょっとよくわからないな。考えてもわからないので、「どうしてあなたたちはこんなに素晴らしいものを素晴らしい熱量で作ろうと思ったんですかねー」ということを逐一ガラスケースの中に向かって問いかけながら館内をめぐる。お気に入りは、老女と翁で対になっているらしい古能面。口の開き方が絶妙である。仏像も同じで、目の開き方、口の開き方が本当に絶妙な幅。見惚れてしまう。そして写経の文字はとても綺麗。学校で書写を教える(書写を教える(習う)ってピンとこないな、書写をする)国だ、日本は。

 どでかい金ぴかの仏(千手観音・阿弥陀如来馬頭観音)を下から拝み(私は千手観音のデザインが好き)団体客を避けるように足早に立ち去る。美術館や博物館もそうだけれど、真面目に何を見ればいいのかよくわからなくなってくるので、空気だけ持って帰ればいいやと思うことにしている。で、帰ってからゆっくり考えようと。

 ちょうど神仏習合に関する本を読んでいたので、説明板の「神仏習合」の文字に「おお~」と内心快哉を叫ぶ。私も神仏習合が好きだなー。だってその方が面白いじゃん。「純血」という言葉を知ったのはおそらくハリーポッターが最初だなあとか色々考えながら、さくさくと参道を歩く。

 

灯篭がいい感じである


 将軍の墓所。人間が神さまになっちゃうのだもんなーすごいなー(何もわからない)。でもこれは神さま扱いではないのか。豪華なお墓という理解で良いのかしら。

 死ねば生前のすべての行いをボジティブなものにできると思ったら大間違いぞ、と思う。金と権力をたくさん持つ人が金をふんだんに使って作らせるものはそれらの人にしかできないとも思う。

 

この先が墓(非公開)



 人は死ぬ。私はまだ死にたくないなあと思う。毎日毎日疲労で考えなくていいのが幸い、やっぱり眠る瞬間は最高に怖い瞬間だし、えー、死んだら考えることができないんですか、それってめっちゃ嫌なんですけど、と思う。

 死に関する話を普段私は誰かにすることはないし、誰かから話しかけられることもない。ただ、こういう寺社を訪れるとき、多分渋谷の109にいるときよりかは死に近づいているはず。他の見学者も死について考えているはず。何故なら、死の濃度が他の場所より濃いから。それならば、楽に肩の力を抜いて話すこともできるのに、まあ、私は一人だし、誰ともこの感覚を共有できなくてなんだかなあと思う。私たちはもうちょっと死について話したっていいはず。この日は奇しくも広島原爆の日

 死んでから350年以上もの間、自分の墓(の近く)へ足を運ぶ人が絶えることのない、その感覚はどんなものですかね、と閉ざされた門に向かって投げかけた後、答えが返ってくることはなく、私はその場を立ち去ることにした。

 

労われることにそこはかとない違和感

 お出かけあるあるな「金と時間を惜しむがあまり食事を抜く」をやってしまい、ふらふらとイライラの果てにカレーを見つけこれがべらぼうにおいしく(肉がとろとろ)食後のコーヒーをいただき気が済んでしまった。他にも気になるところはあったのだけれど、霧雨が降っているし、余力がある状態で戻るべきだと思って切り上げる。思えば療養明けの初めてのロングお出かけである。案の定、少しやりすぎてしまった。

 

外で飲むアイスコーヒーだいすき

 

 

 許されると思って懺悔するのは意味がないというか、懺悔のはき違えているような気がする。懺悔というのはとても個人的な行為で、内省的な営みで、他者に強要できるものではなく、多分、その人の生きる道に繋がる行為なのだろう。

 お出かけを私は懺悔とは呼ばないが、懺悔と無関係だとも思わない。一人で歩き、一人で見聞きし、一人で考えを巡らせ、日常に戻る。もっとマシな人間になれるように、疲れを身から剥がす為に(剥がすというのはしっくりくる)、中身を整理する為に、私はどこかに行かなければならないと感じる。