スケッチ vol.3

 今気になっていることも書き留めておかないと忘れてしまうので、カードに書き出して机の上にカードを置いておこう、メモホルダーが欲しい! ということで100均へ。

 空き地にヒメジョオンがたくさん咲いていたのでカメラを取り出すと座り込んで何枚か撮る。ヒメジョオンと似ている花でハルジオンというのもあるらしい。写真で比べると本当に似ていたので自信はないけれど、ヒメジョオンではないかしら。

 風が強い。風がびゅうびゅうと吹く。そのたびに花はあっちに揺れ、こっちに揺れ、上手いように撮ることができない。それでもかまわない。思い出すために撮るのだから。

 そう考えると。

 カメラをしまって再び歩き始めながら考える。

 パソコンのローカルに保存していたがあまり、パソコンの寿命と共に消えた何年分もの写真は惜しかった。まさしくここ数年の記憶が失われたといっても過言ではなかった。2016年ぐらいに一眼レフを買っていたはずで、そこから6年くらいのデータが結局なくなった。思い出す術は、あとはテキストか。それでも事細かに記しているわけではなく、零れていくものがほとんどだろう。

 ただ、思うのだけれど、人間ってそういうものだと思っている。つまり昔のことなんて覚えていない、あるいはすぐ思い出せるわけではない。私だけなのだろうか。他の人も大差ないのでは。忘れるのが常として写真という形でデータで残せるほうが異常なのだ。そういうスタンスでいると、ま、消えてもいっか、という気分になる。いずれ記憶存在自体を思い出せなくなるだろう。とはいえ、悲しいし、いつかそういう風景を元にして文章を書けたらいいなあと思うので気が向いたときに外付けハードディスクでも買おうかと思う。今のパソコンはローカル内に写真データをあまり置けなさそうだし。

 

 暑い。暑いと「水不足にならないかしら」と一転集中で不安になる。熱中症というもっと喫緊の重大懸案事項があるはずなのだけれど、不思議とその心配はあまりない。ということはいつかやらかすと思うので塩飴と水分は常備する夏にしよう。

 6月にしては珍しくひどい暑さだったと。実際暑かったけれども同じくらい風もごうごうと吹いていたのであまり気にならなかった。開け放した窓からもいい感じに風が入ってきて、扇風機だけで気づいたら寝落ち。また嫌な感じの夢を見た気がするがこれを書く頃には忘れてしまった。

 夏が来る。

 ところで去年の夏の記憶がない。お出かけした記憶がない。暑かったからか? 覚えていることとすれば2021年8月は自分の精神が死んでた月ということで、本もあまり読まなかったし出かけなかったと記憶している。と、記憶を手繰り寄せ、なんだ、簡単なことだった。オリンピックとデルタ株の流行だ。特に後者については、関東でも感染者数が急増し病院にかかることもできない人がたくさんいて、自宅療養を余儀なくされた人たちのツイートとかを追ってた気がする。暗澹たる季節だった。

 人間ってなんて忘れっぽい生き物なのだろうと思う。その忘れやすさは「社会」という仕組みを維持するのに向いてないのではと思う。だから最近の私は「忘れるけれどいかに忘れないでいられるか」ということを考えている。メモスタンドもその取り組みの一つってわけだ。今気になっていること。大崎事件(最近再審請求が棄却された)、男女共同参画白書(若者はデートをしないとかなんとかニュースで話題になっていたらしい)、大阪地裁の判決(同性婚関連)(大阪高裁ではなかったので修正)、沖縄復帰50年(6月23日は沖縄慰霊の日だが、本州で生きる身として軽く感じてしまうことの重さについて)、中絶禁止をめぐるアメリ最高裁の判決(これはホットなニュースだ)などなど。これらのことを私はいとも容易く忘れる。生きるのは瞬間的なことだから。その瞬間に気になっていることを引き戻すために、外部記録媒体(紙のメモ)に頼る。

 

 Xジェンダーの中にも様々なグラデーションがあり、男と女の二項対立がなくどちらでもないという人、男と女があった上でどちらでもない人や、男と女どちらでもあるという人もいる。さらには自分がどんな性か流動的という人もいる。

 私はいずれにも当てはまらない。私の性自認は固定されていて違和感もない。ただ「流動的」というのは、なるほど、面白いと思う。

 例えば、私は自分の中で「生」と「死」が流動的であると感じる。

 「ああ、生きることを最高に満喫しているわ!」と思うときもあれば、「こんな世界生きていられないんですけれど!」と嘆くときもある。それが一日の中で波となって立ち現れる。え、案外他の人もそうでは? と思うのだけれど、聞けたことがない。どうなのだろう。

 ある種の躁と鬱の結果ではないかと思ったこともあった。が「感情の起伏が激しい人」でオーケーだろうという理解に今は落ち着いた。社会生活も送れているわけだし。

 面白いことに、実はこの「症状」は一人でいるときに発現し、誰かといると発現しない。理由はなんとなく説明できていて、誰かといると「誰かと一緒にいる」ということに脳のリソースが持ってかれるので「症状」が出現する余地がないのだ。そして一人になったときに反動、大波がやってくる。ざぶん、である。息が止まる。

 針がどちらに傾くか、明確なトリガーがある場合もあるし、ないときもある。この文章を書きながら、数分前の私は「いやー、やっぱり私生きるの無理だわー」とナチュラルに思ってたのだが、今はそうでもない。文章を書いているだけでニュースを見聞きしたとかそういうのもないのに不思議である。たぶん脳が勝手に色々考えているのだろう。

 そういうことで、今現在は流動的な「生」と「死」をどう扱うかというフェーズになっている。扱い方もだいぶ心得ていて「体を動かそう」もその一つだ。悲観はしていない。どう接していいかわからなかったときでもなんとか生きてたのだから、これから先は大丈夫だろうという安心感がある。

 昔から自分の中で持て余していた感覚。今は生きたい。10分後には生きていたくない。それはつまり流動的と言えないか、と言葉にするのに時間がかかった。流動的、いい言葉である。言語は発明である。

 

 涼しくなってきた! 結局今日はエアコンを使わなかった。窓を開け放し風を取り込む。冷たい風が流れ込んでくる夕暮れ時。これだから夏はやめられねーんだよ、と思う(水不足は嫌だ)。夏の夜が好きだ。

 

 海に行きたい。電車に乗りたい。どこか遠く、誰も知らないところへ。