観覧車

 〇〇するの初めて、と言うと、身内には「そんなことない、小さいころやっただろう(行っただろう)」と言われることがままある。私は昔のことをあまり覚えていないようだ。興味がないのだと思う。

 過去の記憶はふとしたタイミングで水の底から浮き上がってくる気泡のようなもので、それをコントロールすることはできると言えばできるけれど(マドレーヌの匂いとか)でも、結局は機会を演出することに留まり、想起の機構を制御することはできないのだ、と思う。私は観覧車に乗ったことがないと思っているが、もしかしたら乗ったことがあるのかもしれないな。どちらでもいい。大事なのは今観覧車に乗るということなのだから。

 観覧車はまずその造形が素敵だ。こんなに魅力的で、かつ、無駄、かつ、洗練された構造物はあるのだろうか。どうして宙にゴンドラを浮かばせる必要がある? どうしてゴンドラは一周しないといけない?

 乗り場に着くと、一定の速度でゴンドラは動いている。決して止まるな、動き続けろ。そのメッセージは資本主義的世の中と相性がいいが、観覧車はどちらかというと怠惰な印象を受ける。勤勉さというよりはむしろ。どうしてそう思うのかと言うと、観覧車にとって止まることは面倒なことではないかと思うから。一度動いたものはずっと動いていた方が楽、という説はある。

 私はピンセットを持っている、気がした。100mほどの高さから見る世界はミニチュア感がすごい。駐車場に止まっている車はトミカのよう(トミカ欲しい)。人間は小さい点。木々はもしかしたら抹茶のお菓子かもしれなかった。私は地上のあらゆる要素をピンセットでどこかから摘まんで一つひとつ置いていく。神様がそのように世界を作ったと聞かされたら幼いころなら信じただろうか。

 小さいものは可愛い。古典の授業で習った。ああ、確かに、この場所からならちょっと世界が愛おしいと思えるかもしれない。それに小さいからどうでもよくなってしまうのだろうと思う。かなり背の高いマンションでさえ何かのケーキみたいな愛らしさで、そりゃあ地球に降り立つ巨大怪獣がドンドンバキバキ踏み倒しても宜なるかな、である。高さがそのまま権力性とつながるのもなんとなくわかるけど、別に天がえらくて地が劣っているとかそんなことはないんだけどな。その構図を転覆してみたい。