たのしく本を読んでいる

 私はたのしく本を読んでいる。

「そうかな。柊子さんの訳文は、いい意味でいつもそっけないけどな」

 それは意外なことだった。もしもそうであるならば、それは性質なのだろう。文章には—書いたものであれ、訳したものであれ—底流として性質が流れる。避けようがない。

江國香織『がらくた』)

 好き勝手に登場人物が喋っていてそれがたのしい。私の入る余地がない世界を遠くから腕で顎を支えながら見る。自由闊達な人たち。

 外に出て川の方へ向かう。鳥がぷかぷかと川面に浮かんでいる。風が強く波がおこる。鳥がぐらんぐらんと揺れ流れていくのをコーヒーを飲みながら眺めていた。そこでその日初めて「私は私である」と思った。ほんの30分前までそれなりに仕事をしていた私は私ではないと言うつもりはないが、どちらの私が好きかと言えばぼーっと日にあたる私の方が好きだった。

 私は私の性質に興味がないが、書いたものの底にその人の性質が流れるという文章は好きだと思った。何はともあれ、その人の好きなように生きるのがいちばん、効率的?有益?違うな、生産性の話をしたいわけではない。好きなようにやっている姿は見ていていいものだ、ということ。それはわかる気がする。かの自由闊達な人たちのことを考えれば、それは、もう、わかる。川の流れ、底流としての性質、揺蕩う鳥。私はたのしく本を読んでいる。