沼 vol.2

 日暮れを見送るまで歩きたい、という欲望は年内に満たせるかわからない。少なくとも今回は達成することができなかった。一日中歩き続けることができたらいいのに。あと3か月足らずで、果たして叶えることはできるだろうか。

 

時々身体的に自分に苦行を課したくなる。ストイックに、もう疲れたと根を上げたくなるほどに、自分の身体を追い詰めたい。他ならぬ私が私自身を追い込みたい。

ヤマユリ - 透明で不可能性

 K駅は灰色だった。空一面雲が立ち込めていたからそう思ったのだろうけれど、中華料理のチェーン店とコンビニ2つばかり、あとは住宅賃貸紹介の店か薬局か。色彩はそれぐらいしかない。しかも休日の朝9時である。活動開始前の駅前ロータリーに私は一人ぽつんと立っている。
 バスやタクシーを待っていると思われるのは不本意なので、一呼吸入れて歩き始める。

 2つを比較しどちらかというと好きなコンビニに入ると、弁当コーナーに向かう。
 いくつか種類がある中で、三食そぼろとチキン南蛮の弁当を手に取る。
 何故って? 消費期限が迫っていて割引の値札が貼られていたから。人が少ないうちに移動したかったから朝ごはんは食べず、起きて早々身支度を整え家を後にした。朝ごはんとして食べるには、健胃を持ち食欲旺盛な私でさえ些かつらいものがあるが、食べ物が捨てられるよりはましだろう。
 どうせ食べられるだろう。この先の目的地で食べるつもりだったから温めてもらった。「え、温めます?」みたいな顔をされた、ような気がした。「こんな朝にお客さん、三食そぼろとチキン南蛮食べますか、朝ごはんですか、随分とまあ、がっつりしたもの食べられますね、しかも女性で、この朝早くに。まったくどういったことでしょう」みたいな風に思われているのかな。これは私の被害妄想だよね、わかってる。私の脳が見せる幻聴。でも・・・。私はそこで、考えるのをやめた。別にどんな時間に何を食べようが私の勝手なので。

 コンビニを出て、住宅街に足を向ける。
 私は散歩のことが比較的好きだと思うが、住宅街を歩くときは少し別の心構えが必要な気がしている。
 端的に言うと、住宅街を歩くときは消耗する。
 ベランダに干された洗濯物、道端に捨てられた鏡月の空き瓶、くすんだピンク色をした三輪車、変なアパートの名前、建物の間取り。眼に入るすべてのものが生活感を纏うものもので、誰かの気配を感じさせる。それは私の不可能性であり同時に可能性でもあった。面白いけれど、情報量が多い。もしかしたら苦手なのかもしれない。でも嫌いではない。
 起こり得なかった私の人生がそこにはあるような気がした。
 私は人生を意識するのが苦手だ(苦手だ苦手だばかり言っている)。人生のことなんて考えたくない(それは逃避?)考えないに越したことはない。
 人生が苦手だからか、誰かがどこかで生活しているという事実に時々強く打ちのめされることがある。まさか、他人がロボットだとは思っていないけれど、そうだな、未来の夢を熱っぽく友人が語るときの感覚に似ているかな。つまり「あ、この人そんなこと考えていたのか」という驚きと裏切られたような感覚。ああ、人間ってこんな感じで生活しているのか、と真面目に驚いてしまうことがあり、そういう自分は滑稽だなと思う。私だって人間のはずなのに。
 色々思うところがあるので住宅街を抜け交通量が多い道に出たときには息がこぼれ体のこわばりが抜けた。無意識に緊張していたようだ。
 信号のない横断歩道を渡る。トラックの運転手さんが譲ってくれた。私は運転手さんに会釈しながら渡った。

 目的地であるK公園に着いた。
 公園の入り口では朝顔の蔓が巻き付いたアーチが人々を迎える。鮮やかな青紫の朝顔が思い思いに花を咲かせている。雲の隙間からほんのりと光が差し込み、眼を細めながら朝顔を束の間眺めた。地面に目を向けば、しぼんだ花がそこかしこに散らばっている。踏まないように注意を払う。
 ざくざくと公園の芝生を横切る。休日の朝の公園だ。太極拳の集い、ダックスフントと散歩しているおじいさん、何やら打合せしている若者たち、テーブルベンチを陣取り早速雑談しているおじさんおばさんたち。数時間もすれば、ここに子供連れやカップルが加わるだろう。朝早い時間に来てよかった。人が多いと落ち着かないから。
 手ごろなベンチに腰を下ろすと、冷めないうちに弁当を食べ始める。心配していたけれど一口そぼろご飯を口に含めばそれが呼び水になる、箸を動かす手が止まらない。
 タルタルソースがかかったチキン南蛮も食べる。ああ、そういえば私はタルタルソースが好きだったな。自分のことをそうして思い出していく。自分の好きなものですら忘れる。他の人はどうなのだろう。それが普通なのだろうか。
 うふふふふと笑いながら弁当を食べる。外でご飯を食べるのは楽しい。本当に楽しい。細切れの時間、次の予定を意識しながら食べることが続いていたので、時間のことを気にせず何かを食べるということが嬉しい。釣り具を持った男性二人組が前を横切っていく。「ああ、お腹空いた」という声が聞こえた。そうだろう、そうだろう。人間はお腹が空くのだ。

 T沼沿いはサイクリングロードと遊歩道が敷かれており、休日に私はそこを歩こうと思ったのだった。それが私の「苦行」だ。「身体を追い詰め」る為に歩く。
 実際楽しく歩いているのだから苦行でもなんでもないのだが、肉体的にはそれなりに疲れる。今のところ、そういう風にたくさんたくさん歩いて「ああ、どうしてこんなことを考えたのだろう」と思ったことはなかった。だからやっぱり苦行ではないのだろうな。
 9kmちょっとの遊歩道はランナーやウォーキングを楽しむ人で色鮮やかだ。ランナーというのは私的には「求道者」みたいな存在で、私も少し走るけれど、悟りを得ようとするレベルには至っていないのが正直なところだ。求道者の姿勢は惚れ惚れするほど綺麗でぶれがない。色とりどりのウェアに身を包み、淡々と走り去っていく。一方で、まだまだ道の入り口に立つ人もいて、走ることに悪戦苦闘している様もまた、見ていていいものがある。ここから道を進むか諦めて引き返すか、もがいている姿からはなかなか予想が立たないというのも。
 私はどちらでもなくただの歩行者だ。さあて写真を撮るぞ!と意気込んでいるので、ぱしゃぱしゃと写真を撮っていく。雲の奥に見える青、連綿と繋がっていく送電線、芳原の先に広がる沼、水の導線を示す大きな大きな看板。

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 私は黙々と歩く。特に何かを考えたりせず歩くことの楽しさといったら!1時間程度歩き15分ほど休憩、をセットに歩いていく。意識が空気に溶け込んでいく。
 途中でソフトクリームを買って歩きながら食べた。T大橋から以東はランナーもサイクリストも減る。その先まで行くと行き過ぎるからだろうか、細かな事情までは掬い取れない。アイスを食べながらたらたらと歩いているのは私ぐらいだ。のんびりと時間が過ぎていく。

 サイクリングについても触れねばならない。
 最近の私は自転車が欲しい。自転車といってもなんでもいいわけではなく、折りたたむことができるやつが欲しい。そして輪行したい。歩くことは好きだが、どうしても移動できる範囲が限られてしまう。それだけがもどかしかった。自転車があれば行った先々での行動範囲も広がるのではないかしら。
 この思い付きはまだ思い付きのまま。しばらくは自転車は買わないだろう。今は歩くことが楽しいし、電車に乗ることも楽しい。この楽しさを当分は満喫しようと思っているのだ。
 とはいえ、自転車に乗りたいと思っているので、驚くほどの速さで駆け抜けていく自転車を目で追ってしまうのだった。あの自転車かっこいい、この自転車かわいい。サイクリストの隆々とした太腿。一体どれほど漕げばあれほど逞しい筋肉になるのだろう。
 雲が薄くなってきた。日差しが時折するどく差し込み、気温がぐんぐんと上昇しているのを感じる。絶えず東から風が吹いているものの、風の冷たさ以上に光線の温かさが増している。

 二回目の休憩。ぐああと一人呟きながらリュックを下ろした。背中がばきばきだ。靴を脱いで足首を曲げて伸ばしてを何回か。ばたばたと足をゆるめていく。
 遊歩道から少し降りたところにあるベンチなので、先ほどまで歩いていた(そしてこれから歩く)遊歩道を見上げる形になる。みんな走っているなあと思う。えらい。
 先ほどまでの区間で出くわした面白いことを書き留めておこうとノートを取り出すも、何も考えてなかったから書くことがなく、書きたいという気持ちが宙ぶらりんになる。仕方なく音楽を聴き始める。
 「落ち込んだ日の朝は、特に最高」
 この言葉が頭にふと浮かぶ。彼は(とある小説の男子大学生の台詞)学校の屋上から見える景色が日によって時間によって気分によってまったく異なる様に見えることを語ったうえで、そう呟いた。
 それを踏まえた私も言おう、空をぼうっと見上げたときに聴く『テルーの唄』は最高だし、延延と歩いているときに聴く『風といっしょに』も最高だ、と。特に見晴らしの良い場所で歩くときは。
 感傷的な気持ちを誰と共有する必要もなければ、誰とも共有できないことを嘆く必要もない。私は救われるような思いだった。自分の感情の在りかを証明しなくていいし、誰かにわかってもらえないことを悲しまなくてもいい。ただ思ったことがあるだけ。共感を求めることはつらいことなんだよな、なんてことを考えながら緑茶を飲んで、15分があっという間に過ぎてしまった。

 終点までは[Alexandros] のハナウタを聴きながら歩いた。

帰り道はまったく別の駅から帰ることとした。途中、風に乗って甘い香りと白い花びらが流れてきた。どこかで梅の花が咲いているらしい。梅の匂いは桜より濃く鋭い。目的地をお寺にしていたから、帰りはダラダラと歩く。ヘッドフォンで音楽を聴きながらふらふらと。これからの季節は[Alexandros]の『ハナウタ』がぴったり。

斜め下 - 透明で不可能性

 最果タヒ作詞のこの曲は[Alexandros]で唯一知っていると言っても過言ではない曲で、

ひかりのなかに恋をしている 孤独はきっと、そういうもの

 という歌詞に「天才なんだが!?」と叫んで何回目だろう。
 意味があるようでないようでいて、やっぱりある。そういう言葉が最近いいなあと思っている。言葉を愚弄するのではなく遊ぶ感覚でもっとうまく使えたらいいのに。わからない、わからない、わからないが積み重なり「なんとなくわかる…」が形成される感じを目指したいけれど、いかんせん私は語りたすぎる。
 私たちははっきりさせることに執心でそんなのにはうんざりしているけれどやめられない現状。余分余分余分!それこそ詩であるだろうに。
 ハナウタを聴きながら、ほんの少しだけ歩くペースを落とす。
 終着点へを向かう。己の中にあるストイックさ(それをストイックを呼ぶかは論議が必要だと思うけど)が恥ずかしくなった。

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 ゴール地点の橋にある水門のようなもの。沼と川の間にある錆びた構造物を横目に橋を渡った。こうして、沼の片岸を踏破した。

 さて。帰らねばならない。当たり前のことだが、とても大切なことだ。
 私は沼の端っこからもう反対の端っこまで歩いたわけだが、半周しただけでそこから帰ってこなければならない。つまり今来た道を反対に歩かなければならない?
 実は帰り道については考えていなかった。出かけることが好きだと思われているかもしれないが、出かけるまではそれなりに葛藤する。出かけることは面倒だと思うし、行くからには「正解」したい(これは本当に直さなければいけない考えだと思う。何故楽しむことに正解を求めようとしてしまうのだろう。テストの点数至上主義教育の悪しき弊害だ、と私は心の中で憤慨する)ので行先を慎重に吟味してしまうのだ。
 よって、私の今回のお出かけの目的は「9kmちょっとばかりの遊歩道を歩くこと」であり、その先については考えていなかった。そのため、終点までたどり着くと、新たに目的設定をしなければならなかった。
 が、物事はうまく進んでいくものだ。調べたところ対岸も遊歩道が整備されており、そのままスタート地点の端っこに戻ってこれそうだった。それに歩き切らなくても途中で遊歩道から外れ電車に乗ることもできそう。これはいい。気分を良くして早速ベンチに下ろしたリュックを背負うと私は歩き始める。お昼時だが、なにせ朝にチキン南蛮を食べているので食べなくてもやっていけそうだ。今日が再び始まる。

 

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 雲が晴れてきた。日差しで水面はきらきらと輝いている(という表現ばかりしてしまうこの語彙力の無さと、しかし川は湖は沼は海はそういうもので、私は水面がキラキラしている光景がとても好きなのだ)。対岸の遊歩道は先ほど歩いていたものとはまた別の形で、私の好みはこちらの方だったと思う。木々が豊かで人気が少ない。秘密がそこかしこに隠されているような、ミステリアスな印象を受ける。植物の隙間から沼が見えると嬉しくなるし、見通しが悪い為歩くことに集中できた。整備されすぎた遊歩道も考え物だわね、眼前に広がる沼、見えてこない終着点、高いものがなく近接する建物もない為歩いても歩いても自分が進んでいるように感じられなかった先ほどまでの道のりに思いを馳せる。なるほど私は試されていたのだな、これはボーナステージなのだと一人納得しながら、淡々と歩いていく。
 多くの人がこの景色を見ないことに驚く一方で、多くの人が見ているそれぞれの景色を自分が見ることはないという事実にも驚くのだった。そこに私の可能性と誰かの不可能性(そしてその逆も然り)があるということを、人間、もっと自覚した方がいい気がする。でも、私が他人に対して「あなたもっとこうした方がいいのではないかしら」と思うこともそれほどないので、参考程度になればいいなという言葉を付け加える。そもそも「もっとこうした方がいいのでは」と言えるほど一つひとつの物事に確信も持っていないのだから。
 気温が上がり、体力的にも疲弊してきた。疲労は望むところであったが、思っていた以上に暑くなってきた。勘違いをして、考えていた地点より手前で遊歩道から外れてしまったので、往来激しい大通りを歩く羽目になった。びゅんびゅんと車が脇を走っていることに落ち着かず頭がぼんやりとしてきた。仕方なく理性を保つために同じ曲を呪文のようにぐるぐると聴いて歩きなんとか駅に到着した。ぎりぎりまで遊歩道を歩きたかったなと、それだけが心残りであった。

 電車は人で賑わっている。駅には様々なポスターがぺたぺたと貼られ「○○へ行こう!」というinvitationが盛んだ。それに喚起され人々は様々な土地に足を踏み入れるだろうけれど、私の「どこかに行きたい」という欲望がそういう形で収まるのは不本意だった。つまり、誰の指図も受けたくないってこと。

 朝からずっと歩くこと。誰にも邪魔されることなく空が形を変えていくことを、できることなら日暮れまで味わえたらいい。あと2か月と少しで叶えられたらいいな。
 そして最後に書きたいのは愉快な話。私がどこに行って何を見たのか、ちゃんと知っているのは私だけという事実。