生ぬるい絶望

 生ぬるい絶望を持て余している。調子を10段階とすると今日は7ぐらい、そんな日に私はつらつらと絶望について考えている。

 文筆家の能町みね子さんのエッセイに「絶望してるけど投票には行く」というのがある。最近、ちゃんと政治のことを見ていこうと思うようになった。幽霊の正体見たり枯れ尾花、私にとって政治は「幽霊」みたいなもので、そこでは何か醜悪なものが育っていて、人々はそれを嘆き憤り、時に擁護する側と批判する側の間で火花が散って、あいつは嫌いだ、信用できない、嘘つきだ、アンチだ、そういう言葉が飛び交っていて…。政治に対する無力感というよりは、繰り広げられる醜悪な振る舞いを見たくないという思いが私の目を政治から背けさせた。だから近頃はリハビリをしている。一次情報に近いもの(例えば国会の様子や記者会見やなんやら)はまだまだ刺激が強い。触れていると辛くなるので、私が信頼できると思うジャーナリストや番組を通して慣れていく。少しずつ少しずつ政治に触れる機会を増やしていく(そうは言っても、この国で生きている以上政治と無関係、政治に触れていない人などいないのだけれど)。知っていくことで幽霊の正体は私が思っているようなものじゃない、と自分を説き伏せる。

 私の「幽霊」はさておき、能町さんの素敵なエッセイのタイトルに含まれている「絶望」という言葉について考えているのだった。私は絶望しているのか、と。

 絶望しているのか、と聞かれたら「はい、そうです」と答えると思う。それは国とか政府とかではなく、私は、自分が人間に対して絶望していると思っているし、期待をしていない。もっと言うと、自分の人生に期待をしていない。ただ、私は私の絶望が生ぬるい絶望だと思っていて、そこまで進むとどこにも行けなくなる。私はどこに行けばいいのだろう。絶望していると言えるのは、少なくとも生ぬるく絶望している私においては本当の絶望を知らないからだ、きっと。私はその場でしゃがみ込む。どこにも行けない。どこにも行きたくない。

 生ぬるい絶望は飽きる。少し考えて頭がガーンとして悲しくなって寂しくなって嫌になって、そして飽きる。飽きることができるということに落ち込んで、ガーンとなって、つまらんなあと思って、そんなことするぐらいなら音楽聴こう、本を読もう、どこかに行こう、勉強しよう、何か書こう、そして飽きは終わる。ただ、生ぬるい絶望が消えたということではないから、定期的に発作のように私は生ぬるく絶望する。良くなった点があるとすれば、落ちた後に回復するスピードがはやくなったことぐらい。

 生ぬるく絶望しているから、実は個別の物事に対してそこまで絶望していない。国にも政治にも、家族にも上司にも、私にも未来にも過去にも。うん? 違うな。個別の絶望なんて大したことがないのだ。もっと根本的に生ぬるく絶望しているのだから。

 沈めていた生ぬるい絶望が浮き上がってくる。生ぬるく絶望していていいのだろうか? もっと私はちゃんと絶望しないといけないのではないか。そんなことを思う。絶望している人に申し訳ない? なんか違うな。なんだろう、すごく、駄目だなと思う。人として駄目だなと思う。ふわふわと地球を彷徨う幽霊みたいだと思う。自分が。不安だ。これでいいのだろうか。何もない。何もないから、楽というのはあるね。じゃあ、不安に思う必要はないのだろうか。わからない。わからないなあ。そこまで考えてアジカンの曲を思い出した。

何もないな

嗚呼…何もないさ

そうだ そんなものだ

いつかは全部全部全部全部なくなって

それでもせめて 君に会いに行こう

ASIAN KUNG-FU GENERATION『さよならロストジェネレイション』)

 生ぬるい絶望をやり過ごすことができなくなったとき、真の絶望が立ち現れるのかもしれない。それが私の一つのポイントになるだろう。まあ、大丈夫だと思うけどね。さて、気晴らしに散歩に出かけよう。買いたいものがあるのだ。