悪しき種

 電話に出たA子が苛ついているのがわかる。だから私は言ったじゃない、危ないからもう乗るなって。それからさらに5分ほど通話してA子は電話を切った。乾いた喉を潤そうと、アイスコーヒーのストローに口をつけた。
 なんかあった?
 私はA子に聞く。随分怒ってたみたいだけど。
 怒ってる。A子は一気に三分の一ぐらいまでアイスコーヒーを啜った。私、怒ってる。
 何があったの。
 私の母が自転車事故起こして入院したの。
 あらまあ。ご無事で?
 大丈夫。意識は正常。足の大腿骨を折ったって。このご時世だから面会は出来ないらしくて、兄が手続きしているみたい。手術に7時間もかかったって、まったく、もういい年なんだから自転車漕ぐのやめてよって言ってたのに。ぶつけられたのよ。自転車に。ぶつけた相手はそのまま逃げちゃったらしいの。まったく、そいつもそいつだけど、今回は母が悪いのよ、だって、眼も悪くて危ないったらありゃしないのに自転車に乗るものだから。私は何度も乗らないでって言ったのに人の話を聞かないんだから。自業自得よ自業自得。大体ね娘の私の話なんてちっとも聞かないの。自分は大丈夫だって、どうしてそう思えるのかしら。信じられない。あなたが何か起こしてそれで困るのは正直私たちなのよって、それをわかっているのかしら。わかってないわよね、わかってたら自転車乗らないもの。今回は母が転んだから良かったものの、小さい子どもでもぶつかったらどうするの。責任取れるの、誰かを殺しちゃうことだってあるのかもしれないのよ、そういうこと全然わかってないの。ほんと信じられない。
 A子はそこまで言い切ると、興奮して喋りすぎたことを気まずく思ったのか、残りのアイスコーヒーも飲み切ってしまった。追加で頼もうか、アイスコーヒー。うん、お願いします。
 私とA子が案内されたブース席は二階の窓際席で、眼下では、左から右から斜めから、縦横無尽に一心不乱に黙々と歩く人間たちで蠢いている。A子は右の手で頤を支え、ぼんやりと外を見つめている。虚無を見つめるその眼差し、私はいつもきれいだと思っている。
 ぶつけた人はどんな人だったの。
 え?A子が私の方を向く。さっぱりとした強気な顔。私、母とは似てないの。誰に似たのかしらね。あなたはいつか私にそう言った。じゃあ、そういうあなたのお母さんはどういう人なの。
 考えていることとは別の言葉が私の口からすらすらと淀みなく流れる。あなたのお母さんとぶつかった人。お母様は見てないのかしら。
 ああ。若い人だったみたい。多分女性。ぶつかった相手が起き上がれないのをそのまま放置してどっか行ったのも問題よねー。まったく世も末だわ。ぶつぶつとA子は口の中で世の不平を転がす。飴玉のように。それはきっと紺色の飴玉なんだろうな。私はその色の飴玉を持っているのかしら。
 ウェイターが追加で注文したアイスコーヒーを持ってきた。にこやかに受け取ると、A子はミルクとガムシロップを入れる。ミルクがふわふわとコーヒーの海に漂い、溶けていくのを、私は見つめる。A子と私の時間。
 と、グラスの中の緩やかな時間は攪拌による渦により突然消え失せた。そこには白も黒もない、のっぺりとしたミルク色の液体。
 その人は今、何をしているんだろうね。均一化した中身をなおも見つめながら、私は呟く。
 母とぶつかっちゃった人?
 そう。
 さあねえ、何しているのかねえ。まだ警察に届け出出していないみたいだし、自首していたとしても私たちにはわからないわね。
 自分が人を殺したかも、とかどこかで思っているのかな。
 どうだろうねえ。綺麗さっぱり忘れているのかもよ。人とぶつかったことも覚えてないかも。
 悪しき種。
 悪しき種?
 そう。私は、ミルクもシロップも入れてない、氷で薄まったコーヒーをストローでかき混ぜる。コーヒーと水の分離した層を崩そうとする。悪しき種が、埋まったね。
 ふうん。聞いているのか聞いていないのか判然としない様子のA子は、テーブルに伏せておいたスマホを操作し始めた。ねえねえ、この辺に行きたいお店があるの。帰る前に寄ろう。
 コトンとテーブルに置かれた空の二つのグラスと二本のストロー。独特の符丁が殴り書きされている紙の伝票を持ち二人は席を後にする。560円ちょうどをA子に渡し、レジの横にあるピンクの電話機を眺める。遠く近い出来事に想い馳せる。

 路地から大通りへと、よろよろと進み出てくる一台の自転車と、耳から流れる音楽のリズムに合わせながら自転車のペダルをぐいと踏み込む若い女性。刹那、ガシャンと音が鳴り、パーツとパーツがぶつかり反発する硬さを感じると、目の前で横転するママチャリ。歩道に放り出されたのは布を纏った人間。高みからそれを見下ろす女性。彼女の頭の中には先ほどから聴いていた男性ボーカルの曲の今風な音楽が鳴り響き、心臓は早鐘をつくように鼓動する、痺れを催すほどに。道端で倒れている女性は顔を上げられない。周囲には誰の姿もない。車の往来も激しく、歩道で起こった小さな事故に気付かない。防犯カメラもない。誰も彼女の顔を見ている人は、いない。次の瞬間、カチリとスイッチを付けたおもちゃのように、彼女は機敏な動きを見せる。同じく無造作に倒れている自分の自転車を起こすと、サドルに跨り彼女はその場を後にした。倒れている人間のことは振り返らなかった。漕ぎ始めてすぐにわかった。先ほどの衝突で車体のフレームが歪んだのだ。ペダルを漕ぐたびにタイヤがどこかにこすれる感触。体の痺れは引かない。彼女に宿った《悪しき種》が目を出した瞬間だった。冬を超え春の日差しの温かさを感じ芽吹く草花の種のように、突発的で衝撃的な出来事が彼女の《悪しき種》を揺さぶった。彼女の奥に埋まった種は、これからゆっくり、ゆっくりと育つ。いつその花を咲かせるのかは誰も知らない。


 お会計終わったよー、さ、行こ行こ。A子が手に持ったレシートを軽く振りながら私の横を通り過ぎ、喫茶店のドアを開けた。春の柔らかな香りが店内に流れ込んできた。銅か何かでできたドアベルがカランコロンと軽快に鳴る。
 私もA子に続いて喫茶店を後にする。私にも宿っているであろう種が、芽吹く日が来ないようにと願いながら。いや。私は即座に疑問を呈する。今の今まで悪しき種が発芽してないなどとどうして言えるのだろう。すくすくと順調に育ち蕾が膨らんで今にも開花しそうかもしれないのに?私はふふふと微笑むと、後ろ手にドアを閉め、先ほどまでの会話を忘れた。