マスキングテープ

 愛用していた浅葱色のマスキングテープの終わりが近づいていることに気づいた時、浩は背筋がゾッとするのを感じた。マスキングテープを使う場面は限られていて、この色だっていつ買ったのか覚えていないくらい前のものであるはずなのに。備忘のメモをデスクにぺたぺたと貼り付けるか、どこかテーマパークなどに行った時のチケットの半券をノートにスクラップするか、それぐらいしか用途がないのに。「そのとき」が迫っているということがいざわかると、どんな事柄でも人間はハッとさせられてしまうのかもしれないと思った。

 まあ、いいか。

 浩は思い直す。この後、楯山某と会う約束をしていて、待ち合わせの駅にはLOFTが入っていたはず。そこで新しいテープを買えばいい。そうと決まれば問題ない。一瞬止めた手を再び動かして、臆せずマスキングテープを伸ばすと手でちぎり、先週遊びに出かけた動物園のチケットをノートに貼り付ける。今後の道筋が決まれば、心に一瞬生じた靄もどこかへ消え去っていく。小早川浩はそうして生きてきた。もちろんこれからも。

 待ち合わせの駅の改札内にはBECKSコーヒーがあって、浩は物珍しくなったものだからそのコーヒースタンドに立ち寄ると水出しアイスコーヒーを注文した。人と待ち合わせしていなかったら何か軽食でもテイクアウトしたいところなのだけど。いつのまにか待ち合わせの二分前になっていたので急いで改札を抜けた。

 駅の改札前、天井からにょきっと生えている時計は十四時五分をお知らせしていた。駅の時計の文字盤の背景は大抵緑色で、浩は「青汁の色」と個人的に呼んでいる。青汁は飲んだことがないけれど、どこか「藻」を彷彿とさせる色なのだ。それならば「藻の色」と呼べばいいだろうに、藻だと少し時計に失礼かなと思って青汁で妥協している。青汁は健康にいい。時計は今日も市井の人々の生活を刻む。

 楯山某との約束は今日で二回目であるが、一回目は十分遅刻したので今日もそれぐらいだろうと推察している。案の定楯山某の姿は見えず、浩はずーずーとアイスコーヒーをストローで啜る。相手が遅れるのがわかっているなら急いでコーヒースタンドを後にしなくてもよかったのだが、無意識のうちに急いでしまった。結果、相手不在のこの時間を持て余している。浩はLINEの新着メッセージを絶対に開かないようにしながらブラウザアプリを立ち上げると「○○駅 おすすめ スイーツ」と検索し始めた。指でスクロールし、いくつか気になるお店を見つけたところでいきなり誰かの手が肩に触れ、ぽんぽんと叩かれた。電流が走り、浩の意識の届かぬところで体が小さくバウンドした。顔を上げる間もなく声をかけられた。低いような高いようなよくわからない声で。

「ごめん、電車が遅れてて。LINE送ったんだけど、読んだ?」

 楯山某は今日もさっぱりと清潔感のある出で立ちで、初対面の相手にはそれなりに好感を持たれるスタイルだと言える。浩はきまって楯山某に会うと「どうぶつの森」内に登場するストライプシリーズの家具を思い出す。真っすぐと引かれた水色と黄色と白の線。服の系統が似ているわけではないのに、全体的な雰囲気がストライプなのだ。

 ストライプ楯山某はおずおずと浩の顔を見ている。浩はスマホを鞄に仕舞うと口角を上げにっこりと笑った。

「メッセージ見てないけど大丈夫だよ。私も今着いたところ」

 

「女の子ってこういうもの好きだよね」

 幾分くつろいだ口調で楯山某は言う。浩は声がする方向を向かない。

「こういうものって?」

「小物類って言うの?付箋とかテープとかカラーペンとか、そういう細々したもの。学校でも女子のペンケースってどれもたっぷりしているじゃん。すごいなあと思って」

「ふうん」

 声色を意識的に調律するのもなかなか苦労する。浩の声色をどう受け取ったのか、楯山某は慌てて、

「あ、でも小早川さんは他の女子とは違うよ。いつもクールだし、ペンケースもさっぱりしてるから。ただ意外だと思って……小早川さんもマスキングテープとか熱心に選ぶんだね」

 はあ。そんなにびくびくしなくたっていいのに。浩は心の中で溜息をつく。何を恐れているのか、浩にはよくわからない。自分に気を遣う意味も分からない。堂々としていればいいのにな、と思う。青系統のマスキングテープを使っていたから、思い切って暖色のものを使うか、今を踏襲して使ったことのない青みが強いものを使ってみるか。用途をイメージしながらマスキングテープの候補を絞っていく。

 楯山某は「女子たちがいかにも好きそうな」華やぐ文具コーナーに早くも退屈しているようで、通路挟んで反対側にあるガジェットコーナーに目が移っている。
    誰かと一緒の買い物って、何が楽しいのだろう。

 浩はもう一人の自分の存在に気づく。もう一人の自分はマスキングテープを選ぶ脳の片隅で混乱している。自分が今この瞬間をどうしたいのかわからなくなって、足元で光るタイルがぐずぐずと融けだす様な感覚。マスキングテープに視線が固定され動かせない。私はただ、マスキングテープが買いたいだけなのに。それがひどく間違ったように思えて。一体。どうしたら。

「あ、それいいね。小早川さん」

 声にハッとする。

 いつの間にか楯山某が浩のすぐ隣に立って手元のマスキングテープを興味深そうに見つめていた。

「小早川さん?」
 きょとんとした顔で楯山某が浩の顔を見つめている。邪気のない澄んだ瞳だった。

 次の瞬間生唾をごくりと飲み込むと、楯山某が口を開く前に無意識に言葉を発していた。

「私、これにする」

 それは春の青空に映える菜の花のような黄色のマスキングテープだった。

「お会計してくるからちょっと待ってて」

 

 なんだか顔色が悪いという楯山某の心配をそのまま利用して、「体調が悪いみたい」と言って今日は解散することになった。送っていこうか?という言葉は固辞し、せっかく大きな駅に来たのだからどこか行きたい場所があるなら自分に構わず寄っていけばいいと暗に現地解散を仄めかすと、そういえば気になっていたアーティストの新譜が売られているからと、楯山某はレコードショップに寄るということで、エスカレーターで昇っていく楯山某の後姿を見送る。こうして午後は浩一人だけのものになった。

 駅と商業ビルを結ぶ歩道橋を歩きながら腕をぐっと頭上に伸ばす。空は遠く遠く高いところにあった。浩は深く息を吸うと、肺の空気をすべて押し出すように吐き切った。背筋を伸ばし目線を前に向ける。先ほど調べておいたスイーツのお店は駅の反対側。楯山某と鉢合わせしないよう、さっさと買って家で食べよう。そのレシートは記念にスクラップしておこう。その際、浅葱色のマスキングテープを使い切れたら最高だな、なんて。