ミサンガ

 茶色のマンションの入り口付近には正面階段があって、スロープも用意されている。そのスロープの縁(へり)にスーツ姿の男が座ってスマートフォンを操作している。私とさほど年頃は変わらないだろう。では何を以て私より年上か年下か判断するかといえば、スーツがくたっとしているかどうかである。前者であれば私より年上、後者であれば私より年下。私はそういう年齢である、と自分では思っているがどうなのだろう。

 男のスーツは見たところによればくたっとしていなかったので、私より年下かなと思った。であればどういうシチュエーションなのだろうと考えた。いくつか仮説は思いついたが、決め手に欠けるのでそれ以上考えるのをやめた。

 スーツのズボンの裾はあがり、男の剥き出しの肌が、足首が見える。足首にミサンガがつけられていた。

 ミサンガ。

 ミサンガを見るや否や、スーツ姿の男が途端に生身の肉体を持った生きる生命体として認知され始めるのがおかしかった。つまりスーツは無機物なのだ。有機物を覆い隠す無機質なウェア。

 この人は何かを願ったのだろうか。ミサンガが自然に切れた時願い事が叶うと風の噂で教えてもらった。私もかつて一日だけミサンガをつけたことがあったかもしれない。ミサンガを編んだことはある。編み物は心を無心にさせてくれる素敵な行為。私は何を願っただろう。多分何も願うことなんて無かっただろう。今も正直願い事は無い。

 その人に幸あれ。私はもうミサンガを作る気にはならないけれど。