白熱灯

 密が生まれ育った団地で思い出すのは、まず階段の踊り場の白熱灯だった。

 五階建ての団地は、いつもどこかの踊り場の白熱灯が切れかかっていた。夜になると明滅する灯り。椎奈はちろちろ点いたり消えたりする灯りの下では本が読みづらいからと、今日は一階から二階の踊り場にやってきた。一階の白熱灯は「駄目になってしまった」のだ。明日は二階から三階の踊り場へ移動しなければならないようだ。

 二人はそれぞれ階段に腰掛けて書き物をしたり本を読んだ。学校からの宿題も階段で済ませた。真夏の夜は蚊取り線香を足元に置き、冬は二人でブランケットを持ち出し、カイロで手をさすりながら宿題をした。

 密も椎奈も団地の狭い2LKの部屋には居場所がなかったから、夕ご飯を食べるとどちらともなく団地の階段に集まったものだ。椎奈の家には生後間もない赤ん坊と情緒不安定な姉がいた。密には仕事から帰ると飲んだくれる父親がいた。

 その日の密は、漢字ドリルの宿題と格闘していた。漢字は何度何度も繰り返し書けば覚えられるから好きだ。わかりやすいものが好きだ。それに漢字をおぼえれば、椎奈が読んでいる難しい本も少しは意味がわかるかもしれない。椎奈は密の隣で茶色の分厚い本を読んでいる。椎奈が読む本は一日から二日で入れ替わる。毎日学校の図書室に通い本を借りているらしい。「らしい」という表現をしたのは、密は学校での椎奈のことをよく知らないからだ。椎奈が密より学年がひとつ上だし、そうなると階が変わる。自分の学年の階の廊下は堂々と歩くことが出来るのに、椎奈の学年のクラスがある階に足を踏み入れるのは少し気が引ける。

「ねえ」

「為」の文字を五回ほどノートに書き取りしたところで、椎奈が密に声をかけてきた。

「なあに」

 密は「為」の文字から目を離すことなく椎奈に返す。

「密はこの町を出たいと思う?」

「椎奈はどこかに行きたいの?」

 密は思わず聞き返してしまう。これは椎奈が嫌うことだ。案の定、

「質問に質問で返すのはやめて。私は密に聞いているの」

 と、椎奈に言われてしまった。椎奈は自分の質問に答えが返ってこないこと、あるいは、相手が自分の質問に答える気がないことをとても嫌う。その理由を、密は知らない。

 一瞬だけ考えて密は答えた。

「わからないな」

「わからないの?」
 鋭い椎奈の声が返ってきたので、漢字ノートから顔を上げると椎奈が真っすぐとした目で密を見ていた。椎奈の言葉には非難が混じっているような気がして、密はたじろぐ。椎奈はどうして僕を責めるのだろう。

 「わからないよ」

 密は途方に暮れていた。わからないものは、わからないからだ。

「どうして」

「だって僕はこの団地と学校のことしかこの町のことを知らないから。まずは僕が知らないこの町のことを知ってから、出ていくかどうかは決める」
「そう」

 椎奈は僕にどんなことを言って欲しかったのだろう。僕は自分の考えを相手に伝えた後で、その相手が果たしてどんな言葉が欲しかったのか考える癖がある。放った後に考えるくらいなら、言葉を放つ前に考えればいいのに。でも言葉は瞬間的なもので、それに、僕が思っていることを伝えなければ意味がないと思うのだ。だから僕は考えるのは後にしている。椎奈は僕にどんなことを言って欲しかったのだろう。

「椎奈はこの町を出ていきたいの?」

 さっきと同じようなことを聞く。

「うん。出ていきたい」

「そうなんだ」

 僕らの頭上にある白熱灯は、昼間の太陽のように夜の僕らを照らしていた。僕は今日の夜も明日の夜も椎奈の隣で宿題をして、たまに椎奈が読んでいる本の話をして、あとはくだらない学校の話を小声でして(眠っている他の住人に怒られないように)、それでいいというのに。でもこの生活は長くは続かないということもどこかで知っていた。

 白熱灯はいつかは切れてしまう。切れた白熱灯を交換してくれる人の姿を密は見たことがないから、白い光の明滅は密を不安にさせた。このまま真っ暗なままだったらどうしよう。そのことは今でも強く覚えている。

 

 僕も椎奈も、結局はあの町の外に出た。僕は少し離れた町に住み移った。椎奈は僕よりもっともっと離れた場所で旅をしている。

 時々彼女からの手紙が届く。律義に密の為だけにと、彼女の作品である写真と一緒に。彼女は世界各地の建物を撮る仕事についた。

 伝えたことはないけれど、僕は彼女が誇らしい。