洗濯機が置かれている一画の壁に名の知らぬ蛾がいた。

 ピトッと壁に張り付き動く気配がないが、次の瞬間ワシャワシャワシャと羽をばたつかせ、再びピトッと止まった。怖い。

 私は静かにその場から立ち去ると、対ゴキブリ用の噴射スプレーを手に取り部屋に戻る。何も言わずそれを蛾に吹きかける。ジェットの勢いに驚き、蛾はまたもやワシャワシャワシャと羽ばたいた末、力を失い洗濯機と壁の隙間に落ちていった。

 その隙間にはリコール対象となった珪藻土マットが置いてあるのだけれど(お店に送り返せばいいのにまだ送っていない)どうやらそれに引っかかって上に上がれないらしい。珪藻土マットを包むビニール袋に蛾の羽ばたきが触れる。ワシャワシャワシャの羽音が聞こえるも、暗がりで蛾の姿を視認することはできない。

 蛾は死ぬのだろうなと思った。

 もちろん殺すつもりで(なんだか野蛮な表現だ、でも本当のこと)ジェットスプレーの押す部分に人差し指をかけた。銃の引き金に指をかけるように。そして押した、躊躇なく。そして蛾は奈落の底へ(洗濯機と壁の隙間へ)落ちていった。私が、落とした。

 蛾はいつか死ぬのだろう。今はワシャワシャが聞こえるけれど、そのうち聞こえなくなるのだろう。底から這いあがってこないようにと願う自分がいる。どうかそのまま朽ちてほしい。分解されて塵となり空気に溶けてほしい。でも、ここには分解者はいない。命途絶えた蛾はきっといつまでもそこにいるだろう。

 夜は遅かった。はやく寝なければいけない。私はその場から立ち去ると布団に潜りこんだ。ワシャワシャはここまでは聞こえてこない。明日の朝には死んでいるといいなと思っている自分がいて、さっぱりと残酷な願いにぎょっとする間もなく眠りに落ちた。

 翌日、歯磨きをしていても羽音は特に聞こえてこなかった。