投げる

 たまらなくなる。「しんどい」というよりは「きつい」という感覚の方が近い。自己破裂しそうな、そういう感じ。内に蠢くエネルギーを、単語一つひとつに包めて外へ放り投げる。

 

卵パック×2

 夜の街を歩く。もしかしてこの街を歩いたのは1年近く前のことになるのではないか。久々の街だった。

 ぴかりんと光るファミリーマートの看板が見える。緑と白の青のストライプ。そうして言葉にすれば確かにその看板を構成する色は緑と白と青だけれど、もうそれは「ファミリーマート柄だよね」と言ってもおかしくない、これがスタンダードになるということか、と思う。

 自動ドア。人の出入りは絶え間なく、こういうときのコンビニは苦手だなと思う。昼間の人が少ない時間帯に暇そうにしているコンビニが好きなような気がする。「どの状態のコンビニが好きですか?」なんて人は聞いてこないし、自分だって考えないじゃないですか。あなたは考えるのかな、私は考えたことがない。とにかく夜の歓楽街のコンビニは、人の形をした魚が休んでは出ていくイソギンチャクみたいな状態なのです。

 と、卵のパックがふたつ浮かんでいる。フェイスガードをした白髪のおじいさんが片手でひょいと持っている。このご時世フェイスガードですか、フェイスガードって意味ないですよね?と思いつつも、私は卵のパックが気になる。Youは何故卵のパックをふたつも?ってマイクを向けてインタビューしたくなる。飲食店のコックさんというのが妥当かもしれないけれど、卵2パックって足りないですよね、とか。卵をある程度使う料理といえば私はオムライスしか思い浮かべることができず、ああ、私はオムライスが食べたい。欲望とは喚起されるものなのです。

 おじいさんとすれ違い(マイクを向けることはできなかった)ファミマも気がついたら後ろに消えていた。だからコンビニは面白い。

 

閉店

 久しぶりの道。あの曲がり角にはあの店が。と思ったら灯りが灯っていない。閉店していた。「閉店します」の張り紙が意味することが一気に黒い波になって押し寄せてくる。背中がぞわぞわする。ついさっきまで宇多田ヒカルの『traveling』に身を浸しながら心の中で踊っていたというのに。この、一瞬の落差は、なんなのだろう。怖い。

 働く人がいなくなった店内(その人たちは今夜笑えているのだろうか)。もう現れることのない食器たち(もしかしたら粉々に割れているかも)。埃がうっすらと積もっているテーブル(雪のよう)。私が知らない場所で荒廃が進んでいる。同じ時間、何も知らず『traveling』を踊る私。息をするのが嫌になる。息を止めたところで何も変わらないが。それならば、せめて何か灯せる人になりたいと思う。

 

本を買う

 本は本屋で買うのだからよくて、これを家に買って帰ってもこれほどまでに輝いては見えないだろうと思う。何かを買う度に味わう「買った瞬間が絶頂!」という感覚はどうも寂しい。本に限らず何事も。そこから、買ったものと、どのような関係を構築していくかはまた別の話なのだと。私はいつも「大好き!」と思いながら買い物をしがちで(我ながら重たい)だから買った瞬間の刹那的な喜びと、一から構築していく確かな愛情との温度差も大きい。どちらが素晴らしいか。感情的に豊かであるかは比較できるものではなく、質の問題でどちらも愛おしい感情。ケン・リュウ『紙の動物園』とアンソニー・ドーアシェル・コレクター』を買う。この本を読むのはいつになるだろう。

 

シーザードレッシング

 このコロナ禍の影響だろうか。ある公共施設の食堂がお弁当を出していて、かねてからそれを買って食べてみたかった。本当は公園のベンチにでも座ってお昼ご飯としたかったところだけど、それは叶わず。

 リピーターが多いのだろう、そこそこの列ができている。弁当を売っているコックさんがとてもフレンドリーで、常連客と二言三言やりとりをしながらてきぱきとお弁当をさばいていく。私は一見さんなのでやりとりがぎこちない。ビニール袋に入れてもらったお弁当を受け取るときに、せめてもと「ありがとうございます」に気持ちを込めておく。

 鶏肉の黒胡椒炒め、みたいなやつを選ぶ。甘めに砂糖をからませたちりめんじゃこらしきものが入っているのが公共施設っぽかった。すごく偏見。もちろん美味しい。

 サラダにかける為のシーザードレッシング(キューピーの)が入っていた。シーザードレッシングなんていつぶりだろう。普段食べないからワクワクする。一口。ああ、シーザードレッシングってコクがあるんですね。こっくりしていて美味しい。クルトンが欲しいなあ。ベーコンも入れたい。チーズの味。

 

明石焼き

 明石焼きが食べたい。明石は確か兵庫だったはず。兵庫は一度ゆっくりと行ってみたいところ。

 

「姪とパフェを食べに行きたい」

 幼馴染が晴れて「おじさん」になったらしいのだが、姪とパフェを食べに行きたいと言っているらしい。「資生堂パーラー銀座千疋屋だな、ガストとかデニーズじゃダメだぞ」と心の中でツッコミを入れておく。でも特にデニーズのパフェはいいよね。美味しいよね。というか、デニーズで豪遊したいよね。

 私が仮に「おばさん」になったとしたら絶対「○○さん(○○は私の名前)」と呼ばせたいし、贈り物として図鑑をラッピングしたものを贈りたい。

 

眩暈

 貧血と判定されるぎりぎりのラインを彷徨っている。だからか知らないが、ごく稀にすさまじい眩暈がやってくる。そのときは中でも特大なやつで、布団から上体を起こすと天と地が逆さまになってはまた戻るをループしている。目が回る感覚に近いけれど、回るのではなく、ひっくり返る感じ。立ち上がると笑えるくらい真っすぐに歩けず、よたよたと斜めに進んで壁にぶつかった。いて(痛)と声がでた。

 

質量

 フレンチブルドッグと触れ合う機会があった。

 フレンチブルドッグという犬のそもそもの気質というよりは、その犬の個性として、出会ったフレンチブルドッグはとても人懐っこく、何を考えているのかわからない表情でこちらに駆け寄ってくる。他の犬種は割と感情が読みやすいけれど、このフレンチブルドッグは嬉しいのか嬉しくないのかよくわからないままだった。犬は自分の重さを理解していない。どーんと体を当ててくるたびに、衝撃がくる。パンパンに詰まった胴は裏切らない。質量!!!という感じ。駆け寄ってくるたびにどーんどーんどーんとぶつかる。抱き上げてほしそうにあがってくるけれど、少し力をこめたら割れてしまいそうで、私はおろおろするばかりだった。

 フレンチブルドッグは短毛種と呼ばれ、肌触りはむしろ人間に近い。豚みたいとも言える。犬には触れるのだが、フレンチブルドッグを触るのはなかなか難しかった。触れるともう「肉」という感じなのだ。パンパンに臓器や筋肉が詰まった胴体は、毛がぽつぽつと生えた生温かい風船のよう。物理的な重さと、命という儚さに対する重みを感じた。

 

疼痛

 やりたくないのに思わず「やります」と手を挙げてしまうことがある。そういうとき、もちろんやりたくないことなのでとても気分が下がる。でも手を挙げてしまったからにはやり遂げなければならず、完遂した結果ものすごく消耗することとなる。それってやめたいな。すごく思う。

 優しいとか、優しくないとか。頭がいいとか、頭が悪いとか。視野が広いとか、広くないとか。感受性が豊かだとか、そうでもないとか。結局それってよくわからんよねと思っていて、主観的というよりは他の人が勝手に決めてくれって感じだ。自分が何を名乗ればいいのか本当にわからない。面倒くさがり屋ですと言いたい(実際言っている)。「私ってば優しくて頭が良くて視野が広くて感受性が豊かだわ」と思っていたとして、実際のところそうでもなければ「その自己評価、一体なんなんだよ」となるではないか。馬鹿みたい。

 でも。

 私のこの胸の疼痛を説明するには「私は優しくて頭が良くて視野が広くて感受性が豊かです」って言わないと説明しづらいのだ。厄介なことに。

 人が気づかないことをよく気づく。不足しているところを見つけられる。その為の一番合理的な解決策を提示できてしまう。私にはそれを実行するだけの体力と頭の良さがある。そしてそれをこなしてしまう人の良さがある(自分で「人が良い」なんて馬鹿みたいって話だけど。本当に「「人が良い」人」は「自分は「人が良い」」とすら思ってないだろう)。

 実際のところ気づいた人の損じゃん、って思う。どうして気づいたか気づいてないかで作業量が変わるわけ?痛みの量が増えるの?そう思うことが、時々ある。心の余裕がない時は特に。

 問題は、私のこの悪癖が「誰かに感謝されたい」だとか「評価されたい」だとかに関係ないことだ。完全に己の美学で余計なことをしている。「私がそうありたい」ただそれだけの為に、穴の存在を無視することができない。他人が気づかない穴を埋めたくなる。自分を満足させる為の自己犠牲は虚しいものだ。だって終わりがないもの。感謝されても評価されても全然嬉しくないもの。

 悪癖は悪癖として自覚したうえで無理をしないってのが大事になってくるだろうけれど、また一つ余計なことに気づいてしまって手を挙げてしまった。それが多少なりとも自分の負担になっていて、周囲は別に私が穴を埋めたことにさえ気づいていないギャップに痛みをおぼえる。胸が痛い。痛みを紛らわせるために、生クリームに埋もれたい。