おそらくなにかしらの鴨

 水辺の近くを歩く。川岸に芝生が広がっていて群れ咲く水仙の白と黄色の鮮やかさに魅入る。芝生は素直なもので、冬の白っぽさから一転、日に日に濃く青くなっていく。スニーカーで横断するとき、私は少し緊張する。植物を踏んでいいものかしら、という躊躇いが生まれる。それは過ぎた配慮ですよと自分で自分にツッコミを入れる。物事というのは難しいなと思う。

 芝生にて。何かしらの鴨の群れが草を啄んでいる。そういう鴨を見るのはなんだか新鮮で、私は立ち止まるとスマホを横にして二三枚写真を撮る。コンパクトデジタルカメラを持ってくればよかったと後悔する。最近「どうせ写真なんて撮らないだろう」と机の上に置きっぱなしにすることが多い。写真を撮ることと、本棚から本を選ぶことと、ゆっくりと買い物をすることは似ていて、いずれも私の中では大切にしていることで、それが失われつつあるというのは何かしらの兆候ではないか。それはさておき鴨だ。

 愛らしいとは何か。ポケモンの新作を遊んでいると、今まで感じてこなかった既存のポケモンの中の愛らしさによく出会う。ぽってり。でっぷり。もったり。丸みというのは愛らしさにおいてキーとなる要素。もちろん目の前で懸命に草むらに嘴を突っ込んでいる何かしらの鴨たちも丸い。胸のあたりが特に。「かわいー」と私は心の中で呟き、うっとりし、写真を撮り、それを拡大し、やっぱり可愛いわねと一人頷き、なんてことない顔をしてスマホをしまって再び歩き始める。人間というのは複雑な生き物である。内面ではこんな風に情動がおき、消えていく。冬は終わり春がやってくる。

反対周り

 曇天であり、私は宇多田ヒカルの『俺の彼女』を聴いている。暗鬱な朝である。七分丈一枚で出歩くには肌寒い朝だった。春だからと舐めていると、こういう寒さにぶち当たる。私はほんの少しだけ、家の周りを歩くことにする。ぐるっと一周。いつものルートを反対に周った。この「反対周り」というのは、とても良い。

 反対周りを楽しむためには、ある程度同じ方向で周っている必要がある。どこに何があるのか(どんな建物で、どんな路地で、どこにゴミ捨て場があって、どこに標識があるか)なるべく詳細に把握する必要がある。そして「ああ、もう、大体のことはわかっているわ、この道のことなら」と、歩くのが怠くなってきた辺りで満を持して反対に周るのだ。そうすると、自分はいかにわかっていなかったのかを身を以て知ることができる。それは私を愉快な気持ちにさせる。また、ちょっとだけ謙虚になれていたら嬉しい。

 小さな空き地の片隅に松の木が生えているのを見つけた。手すりの上のコーヒー牛乳、思いのほかシックでおしゃれな一軒家、紫の花を咲かせるモクレン、長い傘を持って出勤するスーツ姿の女性。反対に周ることで、世界がまた更新される。その度に私は驚く。

ツバキノツボミ

歩いていたら(私はまた歩いている)ツバキを見かけた。ピンクのツバキだ。花弁が多層で存在感のある花。

私が気になったのは華やかに咲きほこる花ではなく、丸っこい蕾の方だった。鶏卵のような、欠点のない、そうだな私に言わせれば「完璧な」フォルム。卵は好きだ。ゆでたまご、卵焼きなら砂糖抜きで、目玉焼きは半熟ではなくきちんと黄身に火を通したもの。スクランブルエッグと炒り卵は別物(もちろん両方好き)。そして私は卵白アレルギー(それは過去のこと)。

恐る恐る手を飛ばし蕾に触れると、予想していたより柔らかく、そこには花弁の感触。それこそ「花弁がぎゅっと丸まって丸まって中身の詰まったオーバル状のもの」であった。花よりも命を感じるのは何故だろうと思った。花は散るものだが、蕾は咲くものだからか。未来があるから命、なのか?

春の小道の考え事

その事に対してその人が感じたことはその人にしかわからないのだよなあ(その人ですらわからない場合もある)という考えが、歩きながらふっと浮きあがってきた。ユキヤナギが真っ白に咲く、春の小道の出来事だった。

その人にしかわからないという、概ねその通りだと思われることを口実に、人間、怠惰であろうとするのではなく、わからないと知りながらわかろうとすることが、私たちには必要だよね、以上、おしまい

という話になるのだろうか、これは。

犬を抱えた女性とすれ違った。茶色の、ダックスフントパピヨンかチワワか。私は犬、そして女性と順に視点を移し「犬はいつか死ぬのだぞ」と思った(申し訳ない気持ちになった)。何故そんなことを考えたのかというと理由は明白で、先日飼っていた犬を亡くしたからだった。犬は死ぬ。残念ながら。もちろん人間も死ぬ。寂しいことに。

白濁したその瞳は、きな粉のかかっていない、つややかなわらび餅のような震えを帯びていた。まばたきも少なくなり、おそらく何も見えていないだろう瞳は確かに綺麗で、うつらうつらと窓から差し込む光を受け止めるその瞳を私は顔ごと撮影した。

ということを誰が理解するのか、と問うことに意味はあるのか。理解できても理解できなくても、世界はそうであったという事実をただ残したいだけなのだろう(私は)、そして私以外の誰にでも、見えるもの感じるものはあるはずで、そこに対して私は如何にして思料するのかい、どうやって? ということを考えていたのだった。

暖かな昼下がりだった。少し先に見えるベンチは何故かカラーコーンとポールで囲われ「なんやの」と私はほんの少し苛つき(ベンチを開放しないとかあり得ないんですけど)近寄ってみればなんてことない、ベンチの枠組み部分をペンキに塗って乾かしているところだった。なんだあ(にこにこ)。ペンキの色は深い緑色で、私の好みの色だった。

アンチ光陰矢の如し

脳も疲れているし、空腹だし、端的に言えば無理をしている今日だけど、それが一日だけならまあいいかなあ、という気持ちの上澄みでこうして文章を書いている。何かしら書かなければ気が済まないという病に罹っている私。今日の疲れは気持ちをハイにするタイプだったようで、頭の中は忙しい。

寂しいわ、と思う。どうやって埋めればいいかわからない寂しさだ。決して埋まることのない寂しさ、のような気もする。何度も考えてしまって嫌になる寂しさ。空っぽな言葉、それは中身を抜いたガチャガチャのカプセル、を投げ合っている私たち。今日は色々忙しくて一際空虚さを感じた。でも、人生の大体はそういうものだったなと思う。私はアンチ光陰矢の如しなので「そんなに早く過ぎ去ってたまるか」と思っている。忙しくてもちゃんと書いていたい。

ところで、明治ミルクチョコレートの箱(個包装のやつ)を買う。一日に三枚ずつ食べれば九日間食べられるので、最適なタイミングを狙って食べることにする。現在五枚目。

美容室

 髪を切りに美容室へ行く。お互い勝手知ったる美容師なので、ボクシングのような会話の応酬となる。澱みないテンポ。とめどなく流れる会話の一方で、私は慎重に言葉を選びながら話す。それはなんだかパソコンのキーボード変換のようだと思う。

 髪を染めようかな、でも染めたら髪色のことをずっと考えている気がして面倒だな、どうしようかな、と考えている頭の中を見透かされたのか「インナーカラー入れてみない?」という話になる。いいですねインナーカラー、と私も楽しくなってくる。今回は一旦置いておいて、次に髪を切るときはインナーカラーを入れる気でいる。単純。振り返ると、どうしてインナーカラーなのかというと、日曜の朝に放送している仮面ライダーギーツ由来が濃厚。そんなに見ていないのにね。

 選びながらたくさん会話したので、美容室をあとにすると、言葉のない場所に行きたくなった。セットしてもらった髪が振り出しになってしまうけれど、予定通り泳ぎに行く。程よく疲れてバランスがとれたと思う。帰りは明治のミルクチョコレートの箱を買う。

メモランダム vol.14

板チョコの背中

初めてやる背中の動的ストレッチの翌朝は背中がばっきばきに痛んで、板チョコ(ビター)を食べたいと連想する。私は筋肉痛が好きな質で、それは筋肉の存在を感知できるから。そのストレッチのせいなのか、あるいはただ単に疲れているからか、今の私はとても気怠い。

 

日記めいたもの

朝に書く時間を作るというのを始めてから割と続いているのよ、と空白に向かって言う。前は絶対書けなかったけれど、近頃は頑張って(それでも頑張って、なのだ)「Kさんが厭味ったらしくて本当に嫌ね。あんな人にはなりたくないわ」みたいな、嫌な人のことについても書くようになった。基本的に私は「嫌なこと」を言語化しないし、寝ると大概はどうでもいいし、そもそも「嫌なこと」で傷つくことは滅多にないけれど、ただ嫌だったなあ、という感覚が沈殿し積もっていくのはメンタル的にも決して良くはないなと、書くことでマイルドにできないかという試み。「嫌なこと」の中身が嫌なのではなく、「ただそれが嫌なことである」ということそのものが駄目っぽい(ニュアンスが伝わるかどうか)。果たして私は書くことで嫌なことを浄化できているか、というと、実感はない。嫌なことを上回る、楽しいことや好きなことや、発見を書くことができているわけだし、いい体質だと思う。

 

タイマー

よくタイマーを使っている。スマホのタイマー機能は駄目だ。あまりに使われすぎてあの音を聞くだけでイライラする(ああ、目覚ましに使っているからイライラとセットになっているのかも)。幸い、私の使っている青のキッチンタイマーは嫌な感情と結びついていることはなく、家にいるときはたくさんお世話になっている。ブログを書く時間。ゲームをする時間。本を読む時間。私はタイマーでたくさんの時間を区切っている。「何時まで」と時刻ベースで区切るのが面倒で、さくっと「はい、今から5分間本を読みます」と決めた方が楽なのである。何かに夢中になっているときに時間を気にするのはそれだけで苦しいし、物事を存分には楽しめないから、「時間を気にする」という行為をタイマーに託しているのだ。

 

散歩で見たもの

夕暮れ時に散歩。シャツの胸ポケットにアライグマのぬいぐるみを差している男性(おそらくはベビーカーで寝ている子どもの為の物)、半旗、満開の桃の花、アディダスの黒のジャージ、歩きたばこの男性(後ろを歩く私の鼻先をくすぐる煙草の匂い)、ガラスの花瓶を家先で洗う女性。

 

たっぷりチーズ牛めし

松屋のたっぷりチーズ牛めし。チーズケーキは好きだけどチーズはちょっと苦手なので普段ならまず頼まないけれど食べてみる。こってりとしたチーズと牛肉の相性が良いと感じた。