声が聞こえる

 朝。世界最大級のRTAイベントらしいAGDQ2022の目隠しSEKIRO(『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』というゲームを目隠しでクリアする)の日本語実況の音声を聞きつつ、またもや延滞した本を開館する前の図書館に返却しにいく。共通一次を受ける学生を見かけた。

 SEKIROというゲームのことは知らないけれど、目隠ししてプレイするのが恐ろしく難しいことは素人目から見てもわかるわけで、緻密に練られたチャートとそれを完全に頭に叩き込んで実行する集中力と暗記力、そして乱れない操作にただただ驚き、視聴者として見ていてこれほど痛快なゲーム動画も無い。

 声を聞いている。

 先日、仕事で業務的にメールのやり取りをしていた人と通話する機会があった。その人が担当していた業務の一部を私が引き継ぐという会で、仕事内容のレクチャーを受けるというものだったのだが、語りだけでその人が明晰な頭脳の持ち主であることが窺えた(実際その通りかどうかはわからないけれど、作業量に対してこなすスピードも早かったので、多分優秀な人なのだろう)。この人、声がいいなと思った。そして、私がその人を声で判断するように、当然私も自分の語りから様々に推察されているのだろうなと思うと、すごく息苦しくなった。そういうことは考えるときついことはわかっているので普段考えないようにしているのだが、封印はときに緩むことがある。

 海の方へ向かう電車、次は終点というタイミング(私は終点のその先に行きたいのでまた別の電車に乗る)、冬のやわらかな光が差し込む車内。乗客はまばらに座っていてゆったりとした時間が流れる昼下がり、私は自分が他人を分析するのが得意ではない人間なのだと唐突に悟る。他者を分析したいけれども分析するのが不得意で、けっきょく中途半端になる人間。どうなのだろう、これを読む、私ではない誰かは他人を分析する人なのでしょうか。分析というのは「この人はどういう人なのかな」とか考えを巡らせることだけれども。

 私にできることはせいぜい声からその人がどういう人なのか簡単に考えることぐらいで、確かに人を分析することかもしれないが、それ以上は考えられないなと思う。興味もない。分析も当たっているか心もとない。他人はいつまで経ってもわからない。生きていると、時々、残酷なまでに鋭い誰かの眼差しに貫かれることがある。身動きできず、社会的にこれ以上生きたくないなと思ったりする。まあ、そういうことは美味しいものを食べてあっという間に忘れるのだが。

 好きな声というのがある。好きな文体というのがある。限られた要素で私は他者の虚像を捏ねていく。この行為は、でも、私が苦手な眼差しと同じものだよなあ、と思って、罪悪感? 違うな、激しい混乱に襲われる。そして恥じ入る。その繰り返し。

 声を聞いている。素敵な声だと思う。素敵な声だと思って、それ以上は考えないようにしている。虚像を作らず、声そのものを素敵だと言うに止められるか、正直自信がない。

 それはともかく、声つながりで向井太一の『声が聞こえる』は最高。

ソーナンス

 日に日に綻んでいく廉価版モレスキンをぱらぱらとめくり、最後のページを開く。罫線が引かれただけで他は真っ白なページに、私は一行ずつ書いていく。本を読む。本の感想を書く。部屋の片づけ。勉強(具体的なことをいくつか書くが書きたくないので割愛)。粘土づくり。気になっている事柄(これも具体的なことなので割愛)。書き写し作業。

 何を書いているかというと、「私が駄目になりそうなときにやることリスト」である。駄目になるというのは、例えばYouTubeの動画を見続けてしまう、とか、ゲームをやめられない、とか、ネットサーフィンばかりしてしまう、とか、そういう状態のこと。いいかげん駄目になることにうんざりしてきたので(とはいえ、駄目になることは悪いこととも限らない)対処する為のリストを作ることにしたのだ。駄目になりかけの私は、自分の好きなことや楽しいことを忘れがちで、それを思い出す為のリストってわけだ。海に浮かぶ一枚の板切れのような。息も絶え絶えな私がやっとの思いで縋り付く木の板。

 

 粘土でソーナンスを作る。ソーナンスはがまんポケモンらしい。知らなかった。まっくろなシッポをかくすためくらやみでひっそりと生きている、とのこと。陽気な印象が強かったのだけれど、あのハイテンションぶりは己の大切にしているものを隠す為のフェイクなのかもしれない。ソーナンス、とても人間らしい、いや、逆か、ソーナンスのような人間はたぶん少なくない(私はどうだろう)。

 白の粘土に青の粘土少量を混ぜる。粘土は異なる色同士の配分がなかなか難しく、今のところ一番たのしいところだ。白と青だけでは鮮やかな水色になってしまうので、黒少量を混ぜてみたところ、少し暗さを出すことができた。こんな風に「こうしてみたらどうだろう」という試みがきまったりきまらなかったりするのがとても愉快。今回はうまくいったと思う。そして再現することができないところも好きだ。

 ソーナンスの足元。こうしたらいいのでは?というアプローチは悪くなかったが、胴体とのバランスをもう少し考えられれば良かった。またソーナンスのシッポには二つの目みたいな模様(もしかしたら本当の目かもしれない)がついているので、ここは頑張った。いい出来。ソーナンスの足元なんて今まで考えたことが無かったので、やっぱり粘土遊びや楽しいや。特徴的な目と口を入れる前に胴体を乾かした方が良さそうなので、のっぺらぼうのソーナンスがお菓子の空き缶に凭れかかっている(シッポをいい感じに固定したまま乾かしたいので)。昨日の私より、ソーナンスのことが好きになった。わはは。

 

 朝食はご飯を食べたいところだが、偶にトーストを食べることがある。今日がそんな日だった。

 スライスチーズを余らせてしまったので(昨晩、開封したスライスチーズを余らせなければならない事情があったのだ)それを溶いた卵にちぎって入れてフライパンに流し込んでスクランブルエッグにする。一方で冷凍した食パンにマーガリンを塗って、トースターで焼いて、カリカリに焼きあがった表面にマヨネーズとケチャップを薄く塗る。マーガリンにマヨネーズにケチャップ? 図らずも高カロリーな食べ物になってしまった。そしてスクランブルエッグをパンにのせて食べる。これが食パン一枚食べる為のテンションの上げ方。別に嫌いなわけではないのだが、それ以上にご飯を食べたいのだ、私は。もちろん美味しかった。たぶん、美味しく作るより、作りたい食べ物を作るのが楽しい。

 

 がまんポケモンソーナンスソーナンスに戻ってきた)。ポケモンってのはタイトルによって同一ポケモンでも覚えるわざが異なるらしく、ソーナンスがどうなのかわからないけれど、ソーナンスが覚えるわざとして「ミラーコート」ってのがあって、これは「相手の特殊わざのダメージを2倍にして返す。必ず後攻になる」というわざなのだが、ソーナンスのことを踏まえたうえで考えるとハチャメチャに怖い。

 地震のメカニズムがそうであるように、火山の噴火がそうであるように、抑圧されたことで溜まったエネルギーが弾けたとき、その威力は格段に上がるということ。

 昨夏から楽しんでいる『アイドリッシュセブン』(ゲームとか)の逢坂壮五くんは、普段はとてもおとなしく礼儀正しく善良で謙虚な、とても素敵なアイドルであるが、メンバーが籠っている部屋のドアをスクリュードライバーで強行突破したり、事務所に不法侵入してきた不審者と仲間が取っ組み合っているものだからパソコンを放り投げようとしたり、有名な過激エピソードがあって、また酒に弱いってのもあるけど、そう、私は彼のことを思い出す。

 でも、我慢をする人にとって我慢をするというのは息を吸って吐くことのようなもので、息を止めろと言えないように、我慢をするなとも言えない気もする。だから我慢をやめることよりも我慢をすることで溜まっていくエネルギーを適度に発散させる術を学んだ方が前向きで楽しいだろう。「突然キレる子どもたち」みたいな話(そういうのがあるのかはわからん)で言われてそう。

 ソーナンスミラーコートのように二倍にして相手にお返しするのが効果的な状況もある。それをポジティブに使えれば全然いいのだけれど、誰かを傷付けることになると我慢した人もめちゃめちゃ傷つくはずで、それは悲しいよな、という話。だから私も誰かの悪口は適度に発散しないとね、それが暴発したとき社会的に生きていけなくなっちゃうね、という話。

公共的空間に流れる個人的なOne Love

電車に乗っていると、どこからともなく嵐のOne Loveが流れてくる。音の在在処がわからない。車内ではないと思うのだけど…と困惑していると、電車のドアは閉まりOne Loveがスッと消えた。どうやら外で流れていたようだ。

少し想像を巡らせてみる。仮に音の出どころが「駅のホームにいる誰か」だとして、通勤時間帯に大音量で嵐のOne Loveが流れるのはふつうではない。音楽はイヤフォンで個人的に聴くもの、部屋にあるオーディオで聴くもの、車の中で大音量で聴くもの(私は大音量では聴かないけど)ライブ会場で踊るもの、公園の芝生でかけるもの、などたくさんの在り方がある。だけど駅のホームで爆音で聴くのは多分ふつうではない。駅のホームという公共的空間に流れる個人的なOne Love。

また、流れる曲がOne Loveというのも良い。とても良い。記憶を改変してなければ、私は『花より男子F』を映画館でその当時の友人の観ていたはず。その主題歌。砂浜と牧野と道明寺。披露宴でOne Loveを流した(と思っているが都合よく改変してるかもしれない)知人たちは、うまくやっているかな。

モンスターズ・インク』では、物語の最後に、従来の子どもの恐怖から笑いへ、彼らの世界のエネルギー源が置き換わる。私は恐怖と笑いの関係に、祝福と呪いの関係を見る。祝福と呪いというのは切っても切り離せないもので、圧倒的祝福One Loveが圧倒的呪いに転換するようなことがあれば、それは悲劇なのかな、なんてことを考えながら電車を乗り換えた。

誰かにとってのOne Loveが、呪いに成り代わるのではなく祝福のままであればいい。そして駅のホームで流れていたOne Loveは祝福と呪いどちらだろうか、もしくはどちらでもないのだろうか。

たのしく本を読んでいる

 私はたのしく本を読んでいる。

「そうかな。柊子さんの訳文は、いい意味でいつもそっけないけどな」

 それは意外なことだった。もしもそうであるならば、それは性質なのだろう。文章には—書いたものであれ、訳したものであれ—底流として性質が流れる。避けようがない。

江國香織『がらくた』)

 好き勝手に登場人物が喋っていてそれがたのしい。私の入る余地がない世界を遠くから腕で顎を支えながら見る。自由闊達な人たち。

 外に出て川の方へ向かう。鳥がぷかぷかと川面に浮かんでいる。風が強く波がおこる。鳥がぐらんぐらんと揺れ流れていくのをコーヒーを飲みながら眺めていた。そこでその日初めて「私は私である」と思った。ほんの30分前までそれなりに仕事をしていた私は私ではないと言うつもりはないが、どちらの私が好きかと言えばぼーっと日にあたる私の方が好きだった。

 私は私の性質に興味がないが、書いたものの底にその人の性質が流れるという文章は好きだと思った。何はともあれ、その人の好きなように生きるのがいちばん、効率的?有益?違うな、生産性の話をしたいわけではない。好きなようにやっている姿は見ていていいものだ、ということ。それはわかる気がする。かの自由闊達な人たちのことを考えれば、それは、もう、わかる。川の流れ、底流としての性質、揺蕩う鳥。私はたのしく本を読んでいる。

肉まんを食べよう

 ばれているかもしれないし、ばれていないかもしれないが、私は食べ物の好き嫌いが多いと思っている。ただ、他人にそう指摘されたことは無い。実の家族でさえ。

 実際のところ「まったく食べない、食べれない」という食べ物は現時点ではパクチーぐらいで、出されたら文句言わずに食べる(でもできれば食べたくない)という食べ物が多いという感じだ。その筆頭は昔から、カボチャだし、サツマイモだし、めんつゆだし(めんつゆ?そう、だから蕎麦もあまり食べない)朝はご飯が食べたいし、ゆでたまごは半熟より固めの方が好き。

 そういうことを公言するのは良くないなと思いつつ止められない。何を好きか嫌いかと言葉にすることで、ある種自分が規定されていくような感覚があってすごくひっかかる。止めた方がいい、これ以上は進まない方がいいと思っているのに。どうして抵抗感があるのかというと、好き嫌いの宣言は、自分という不安定な存在の輪郭を濃くしてくれる一方で、私のからだに巻き付く鎖を増やすことでもあるように思えるから。だから「私カボチャ嫌い」と言っても、パンプキンパイもかぼちゃのプリンも好きで、私のことなんて気にしないでほしいと世界に願っている。勝手だなあ。

 そう、好き嫌いの話。肉まんの皮がそんなに好きではない。甘いから(私の好き嫌いの傾向で、食事として甘いものを食べるのが苦手、というのがある。甘めの味付けよりはしょっぱい味付けを好む。THE・高血圧予備軍)。でも肉まんを食べるのは嫌いじゃない。冬に肉まんを食べるなんて最高でしょう?

 寒いし、連日出かけまくったし、で引きこもっている私を肉まん(コンビニの)が連れ出してくれる。コーヒー片手に散歩するのが最高なように、どこかのベンチで肉まんを食べるのも最高。ということで、今からちょっくら肉まんを買いにコンビニに行ってくる。そのまま少し散歩しよう。

 言葉が海に吸われてしまったような、そんな感覚。

 昔は出かけるたびに落ち込んだ。感情は上がれば下がるもので、お出かけで楽しんだ分その反動はつらいものがあった。今でも、楽しみにしている予定のあとは必ず落ち込むものだと思ってバッファは積むようにしていて、心構えがある程度なされているからか最近はそこまでがっつりと落ちることは無い。

 今回も落ち込んではいないが、代わりに言葉が自分の中に無い。でも考えてみればそういうものなのかもしれない。私が外に出るとき、それは自分の中でいよいよ何かが耐えられなくなったとき。外に出て刺激的なものやことに触れることで私の中に溜まっていった何かを取り除き、ゼロになってまた帰っていく。早い話が、出かけることはデトックスであり、そう考えれば言葉が無くなってしまったのはわかる気がする。

 何もないので久しぶりに泳ぐことにした。数週間泳がないだけで体は驚くほど鈍るもので、水を掻く手ごたえは欠けるし、疲れるし、困ったものだ。体のメンテナンスは自動的に組み込んで維持する仕組みを作らないと本当に駄目だと思った。泳いでなおさら残るものが無くなった。

 また明日から溜め込む日々なのだろうけれど、それはある意味で創造的な日々なのかもしれない。日常に忙殺され考えることを止めて自分が澱んでいくような感覚を抱いていたけれど、たくさんの情報を処理しているとも言えるわけだ。私はそこで色々なものを溜め込んでいくが、それが無ければ何も生み出せないのかもしれない。それは仮説として、また明日から考えていこうと思う。そのうち爆発寸前みたいになって出かけることになるだろう。性懲りもなく。

海・海・海

 今日もまた海へ。

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 朝ご飯を食べる時間がなかったので、乗換の合間を狙って豚丼をテイクアウトして海を見ながら食べた。冬に、一人で、海を見ながら、豚丼を食べている人間なんてあまりいないだろうなあと思いながら、それでも食べた。もちろん豚丼は美味しかった。牛丼にしなかったのは少し冒険したかったから、だろうか。私は優柔不断なタイプなのだけれど(子供のころの通信簿には家族からの申し送り事項のところにいつも書かれていた。この子は優柔不断なので、と)優柔不断なのが嫌すぎて自分なりに矯正してきたところがある。大事なのは、自分が下した選択はその時点での最善だったのだと信じること(まあ、実際この考え方は正しいとは限らないのだが)。だから私は豚丼を注文したことを後悔しない。カレーも美味しそうだったけど。あとコンビニでゆでたまごも買って食べた。

 

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 村上春樹の旅エッセイ『雨天炎天』を旅のお供に。これがまたぴったりで、道中に読む本がいい感じだとテンションが上がる。この場に最適な曲を見つけられた時の嬉しさと同じである。図書館で借りた本だけれど、買ってもいいかなと思うので後で注文しておこう。

 

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 波打ち際を歩く。寄せては返す波の律動。腹の底から揺さぶるような確かな轟。際を歩いていく。振り返れば私の足跡。歩いてきた道が可視化されるのは妙にこそばゆい。早く波がさらって掻き消してくれないかと思い、前方遠くを眺めれば、一人、老婦人が私と同じように海と地上の境目を歩いていた。おそらく地元の方が散歩をしているのかなと思うのだが、どことなくたおやかで毅然とした雰囲気だった。私もあんな風にいられたらいいのだけれど。そうして老婦人のあとを追って砂浜を進んでいく。

 オレンジっぽい色をした貝殻がきめの細かい砂に半分埋まっているのを見つけた。かがんでそれを手に取るとそれは二枚貝の半分。打ち寄せる波でさっと濯ぎ、歩きながらぱたぱた振って水気をとる。既に拾っていた石(幾度となく波にもまれ角がとれた丸い石)を手のひらに乗せると、その上に拾った貝を被せる。そうしてぎゅっと手を握れば即席のマラカスの完成で、歩きながら、そうだな、修行中のお坊さんが鈴なのか鐘なのかを鳴らすように、きまったタイミングでシャカシャカと石を鳴らす。いつの間にか砂浜を出て路地へ。誰もいない、人気のない路地を簡易マラカスの音だけが鳴り響くのが面白くて、しばらくの間演奏を楽しんでいた。

 

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 そこは沙漠だそうで。

 

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 ラクダが目を向ける先は。

 

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 もちろん海。どうしてこうなったのかわからないので(何故ラクダ)後で調べておこうと思う。

 疲れてこれ以上は考えられないが、今日のことは明日以降整理して心の奥底に仕舞っておこう。