呟き

近況の呟き。

近況といっても書きたいことは何もない。書くことはあるが、それを書きたいとは思わない。だから書くことではなくなってしまう。

春、そして初夏に移り変わるの夜の肌寒さというものを味わっている。まだ布団をしっかりと被る。そのうちそれは足で蹴飛ばして、来たる秋までは見納めになる。早く眠りたい。

回復が遅い。睡眠の質が良くないのかもしれない。もう少し早めに寝るべきなのかも。有酸素運動の頻度を上げたい。でも回復が追いつかない。頻度を上げて、一回あたりの量を減らし、慣れていく戦法をとりたい。

tuzuという、セーラーかな、新しく出る万年筆を買う予定。用途は、あるのかな。買ってから考える。

メイドインアビスが無料公開されているので読んでいる。誰にも共感できなくて安心する。あるいは辛くならないように共感しないようにしているのかもしれない。好奇心に駆動されている。巫女やら誕生日に死ぬ病やら枢機やら何やら、冒険にわくわくする心についてもう少しゆっくり考えて見たいところだ。

小学生の頃に思っていたのは、情報が大事だということ。パターン収集。カテゴライズ。「気がつく」範囲や深度を他人と比較したとき、私はどれくらいの「気がつく」度なのだろう。自分が思っているよりそれは低いはずだ。私はよく気がつくタイプではない。優しいわけでもない。私にはわかっていない領域がある。不可視の。

仕事は好き。つまらないし、やりがいもないけど。

カップスターの醤油味は、気安い味がする。駄菓子屋さんのぶためんの味。カップヌードルより食べやすいまである。

すっきりと晴れない日が続いている気がするけど本当にそうなのかわからない。普段の天気は記録していない。青空を最後に見たのはいつだっただろう。

カフェオレ飲みたい。

人間は海や大地みたいなもので、津波が起きても地震が起きても、海や大地を憎むのは違うわけじゃないですか、だってそういうものだもの、と同じ扱い。人間の悪しき部分はそういうもので、そういうものによる実害をなるべく少なくすることもできるだろうというのが私の考えで、だから悪しき部分を観察しては人間について考える。インターネットに言葉を吐くことと、それに伴い誰かが傷つくことと、誰かが騒ぐことについてずっと考えている。フィジカルが存在しないのはそれはそうとして、私たちは一体なんなのだろうと思う。この呟きもなんなのだろう。

太麺で大盛りのパスタを食べて、にんにくの香りの強さに胃がぎゅうと鳴る。野菜を食べてないな。

断崖を登るときに打ちつけるピッケルが私にとってのボールペンで、とりあえず何かを書いていれば私は形を保つことができる。私は私の字も好きです。

エビマヨ

 スーパーに寄る。おにぎりのブースは、総菜売り場の隅、柱のところ、金属のかごの中に三角系のおにぎりがまだ残っている。

 私はその中から「エビマヨ」の単語をみとめると手を伸ばし、それを手持ちの買い物かごの中に入れた。既に舞茸と小松菜が入っている。おにぎりは一律99円、他にどんな味があったのかは知らない。エビマヨが見えて、私はエビマヨが好きだから、それをかごに入れるだけ。

 帰宅。荷物をほどく。PCでインターネットを回遊しながらおにぎりのパッケージを剥がしていく。三角形の角にかぶりつく、無意識の流れ作業、本当は~ながら食べることは避けたいのだけど。米の確かさと海苔、エビマヨには届かない。

 スーパーのおにぎりと言うのは博打的な要素があって、店によって米のコンディションは様々、このスーパーの米は「まずまず」だ。

 おにぎりを食べる。一口、二口。まだエビマヨは見えない。三口目、ほのかにエビマヨ、四口目、私は気づく、このおにぎり、エビマヨが少ない。

 私は落胆しないし苛立ちもしない。99円だもの。エビマヨが(特にエビが)少なくても文句は言えない。デフレだなあとか、侘しいなあとか、そういうのは感じる。おやつにおにぎりを食べようとして(そして食べて)すいません、と詫びたいような気持ちになる。

 おにぎりを食べ終え、今日も今日とて面白いことがあったなと思う。

フルーティー

 好きな食べ物。鶏の唐揚げ、餃子、カレー、あとは白米があれば文句なし。

 カレーが好きなのだけど、フルーティーなカレーがちょっと苦手だ。具体的に言うと、レトルトカレーがあんまり好きではない。それって、もはやカレーが好きだと言えるのだろうか。それでも私はカレーが好きだというけれど。好きなカレーは、市販のルーで作るカレー。あとは某人気店で食べたビリヤニもおいしかったな。CoCo壱番屋のカレーも大丈夫。欧風カレーもいい感じ。

 かねてから食べてみたかったファミリーマートのこだわりカレーを食べる機会があった。それはフルーティーなカレーだった。それでもカレーはカレーなので、私はきちんと食べた。

 私のカレーの食べ方も、外カレーに逆風が吹く。

 私が好きなカレーの食べ方は、ご飯が8に対して、ルーが2の割合、もしくは7:3でもいい。悲しいことに、大概の外カレー(対義語は家カレー)は、ご飯とカレーの割合は半々になるように仕組まれている。レトルトなんてご飯に比べてルーが多すぎると思う。ルーの量が多いと、それ以上のご飯を食べなければならない。それは難しいことなので、ご飯とルーの比率を調整する為に、スタートにルーだけちびちびと食べる(というか啜る)無の時間が生じる。

 ファミマのこだわりカレーもそれで、ルーの半分は別に避けておいて、翌日第二ラウンドと相成った。

刺青

池袋の南側を歩きながら、今のところはまだ若さゆえの瑞々しさが残っている(と思う)右の腕を眺め、私はここに刺青を入れるならどういうデザインにするだろうかと考えている。せっかく入れるなら見える位置に入れないと駄目よね、私は腕のことが好きだから腕に。

植物のデザインがいいな。文字は嫌。

でも刺青入れたらプール入れなくなるかな。それは最悪だ。言っておくと最悪なのは刺青じゃなくてルールの方です。ルールが良い方向に、望んでいる方向に変わるのは難しい。駄目な方面に進むのは憎々しいほどスムーズなのに。

刺青を入れることはないのだろう。軽率に憧れるのも違うのかもしれない。でも、私は今、相棒みたいなものが欲しいのだった。何か、人智を超えた何か、どうか私に力をください、と思っている。具体的かつ解決困難な問題があるわけでもないのに、力が欲しいと願う。だから刺青を入れたいなと思って、それだけである。

頑張りたいこと

 頑張りたいことがあるってとても素敵なことだと思うし、頑張りたいことを頑張っているさまは、それが例え上手くいっていなくても美しいと思う。頑張りたいことがあること、私はとても羨ましい。

 そう思って「何か頑張りたいことあるかしら」と考えていたのだけれど、なかった。

 頑張ることは羨ましいのだけど、一方で「頑張りたいことを頑張るって無理」と思う自分がいる。

 なんというか、頑張るのではなく自然でありたかった。頑張る必要すらない、生きることと密接に絡みついて切り離せない、そういう在り方の方が私にとっては現実的で、だからないものねだりなのかもしれないね、と思う。憧れは憧れのまま、私は私でやっていく他ないのかもしれない。

泳ぎたくない

泳ぎたくない日がある。泳がないと体は鈍っていく。鈍りと怠惰を天秤にかけ、私は渋々着替える。軽めに。10分でいい。そう言い聞かせ、プールサイドに出る頃には幾分気持ちはましになっている。そして本当に10分で切り上げて、さっさと帰る。